どれくらい自分の作品の傾向と向き合うか

文字数 1,694文字

 文字数制限のせいで、正しいニュアンスではないタイトルだが。
 どれくらい自分自身の作品傾向について向き合ったり、考える時間を持っているか? という話。

 例えば何かを目にしたとき、こういうの好きだなと思うことはあると思うの。
 こんなの書きたいなとか。
 
 小説とは、経験、知識、想像、空想、体験、理論など思想と体験、情報などから出来上がっているものである。いわば頭脳そのものであり、その人の人生観そのものであったりもする。
 その人の人となりが分かりやすいのはエッセイ。
 エッセイを読めば思想と性格が分かる。
 一ページの文字数を考えずに、ただひたすら思想をつづる人は周りが見えていない。
 
 読む人のことを考えて、流れやページ分けをするものである。
 内容に興味を惹かれたら確かに読み手はつくだろう。
 だが、読みつらかったら続けて読んでくれることはない。

 エッセイに求められるのは『読み手にプラスになること』である。
 つまり、その人の体験や思想などからプラスになることが書かれていたなら、それは『読者にとって有意義な読み物』ということ。
 エッセイというのはほぼその人の思想語りでしかないので、読まれないものは全く読まれることがないだろう。それは内容に問題があるか、読みつらいか、エッセイがあまり読まれない(注目されない)サイトであるかのどれか。ちょっと見直してみた方がよい。

 俺のように『、』の位置がおかしかったり、誤字脱字の多い人は『書いてすぐに読み返さない人』であるw あとから読み返したら「なんだこれ?」というのはかなりある。

 さて、あなたはどれくらい『自身の作品傾向と向き合っているか?』という話。
 おそらく作品を作成するときは、大まかでもプロットなり『こんな物語が書きたい・しよう』というのがあると思う。人によっては細かく設定することもあるだろう。

 わたくしごとだが、実のところ俺は全体で1プロットにしているので『一つ一つの作品のプロット』というものを持っていないw
 それはシリーズものであれば『プロットは1』そこから切り取って作品にしているということ。
 つまりは全体で一作品で、それを読みやすくするために小分けにしている。こういうこと。
 
 リーマン物語の場合はIFなので、分けているが派生は1なんだよね。
 なので次々と書くことができるというわけ。
 奏斗の物語は現在3作同時進行だが、時系列でぶった切っているだけ。
 なんでこんなことになるのか言えば『ベースがパンセクシャル』なせい。同性と付き合うこともあれば異性と付き合う場合もある。ただし、読み手はどちらかを選ぶだろう。両方出てくる話は基本読まれない。
 別に読まれたいから分けているというわけでもなく、とてつもなく長くなるので、わかりやすく分けたというだけ。そもそも不人気なので、続けて書こうがあまり問題はないだろう。

 話はそれたが、書いているものには我知らず『傾向』というものが現れる。
 なぜならそこには『生きた証』とういうものが刻まれるから。
 それは何かというと、『話し方・言葉選び・好きなタイプ・好きな構成』など自分の思想や好みが出るから。
 そこでふと、自分の書く恋愛ものは同性ものと異性ものでは違う方向性だということに気づいた。
 必ず取り上げているのは『多様性と性』である。
 ただし、この多様性というのは男女間と同性間では違うものだと思う。

 こと日本においては女性は虐げられていると思う。
 そして男女とも勝手にイメージの押し付けをされている。
 そして『罪』というものに関しての考え方に違和感を覚えているので、男女では特に『罪』というものが多く出てくるのだ。
 どうにも一般の『罪を償って』という言葉に違和感しかない。
 確かに罪を犯せば罰則はある。だがこの罪は誰に償っているものなのか?
 法の下に裁かれても、被害者は全く浮かばれてないよね?
 性犯罪は特にそう思う。男女間の性犯罪だったら、相手の女性に股間めった刺しにされる刑くらいないと、何も償いにはならないと思う。
 労働も禁固もなんの意味もない。俺は少なくともそう思っている。
 
 
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