自分に追われる日々

文字数 1,728文字

 計画を立てて日報を綴っている時は、恐らく順調に物事は運んでいる。
 やらなきゃならないことを、表にするというのは非常に効率が良いと思う。
 何をやらなければならないのか、思い出すところから始めるのはとても非効率的である。それなのに、何故無計画な日々を送っているのか?
 以前なら”几帳面な人”と言われていたし、職場でも”意外とマメなんだよ”と言えば”意外じゃない”と言われるくらいだったのに。

 そもそも自分が几帳面であると言われるには、理由があるように思う。
 気質から考えてみて、几帳面か? と問われるとそうともいえないからだ。
 つまり、几帳面に何かをしたくてこうなっているのではなく、必然的にこうなったというのが正しいと思われる。
 それは、”規則正しく何かがあるのが好きなのではなく”、”規則正しい方が効率的であり、数をこなせると思うから”なのだ。

 そんな自分には一つだけ人よりも少しだけ優れているもしくは長所がある。
 それは”集中力が持続する”と言う点。
 昔からこうだったわけではない。

 子供の頃は母親が俺に対し必要以上に干渉し、小間使いのように扱い、虐待なんかもされた。俺はとにかく自由になりたかった。俺にとって親というのは=暴力的な恐怖でしかない。精神的にも肉体的にも両親に虐げられてきた。俺はとにかくそれが嫌で仕方なかった。
 どんな人かというと、母は人を見かけで判断し偏見も強い。自分以外は間違っていると思うような人物。 父は、無口で気に入らないことがあれば暴力を振るう。自分が常に正しいと思っているような人物。
 そんなこともあってか、俺は怒るのも揉めるのも、暴力も嫌いである。
 暴力に訴えるのは、低能なサルとしか思っておらず、もちろん両親に対しても尊敬はしていない。
 死のうが生きようが俺には関係ない。

 干渉されて生きてきたせいか、結果こんな性格になったわけだ。
 文句も愚痴も聞くのは嫌いだし、変えられるのは他人じゃない、変わるのは自分。その結果、周りは変わるとも思っている。そして自分は自分、他人は他人。
 他人が何を思っていようが、俺の知ったことではない。
 経済的自立が難しくても、精神的に自立できない奴はゴミだと思っている。
 人をあてにしても無駄なのだ。みんな自分のために生きている。困っている人をみて手助けしたところで、その人は自分が困っていても助けてはくれない。
 何故なら、自分のことがまともにできない奴には余裕がないから。
 だからどんな時でも、他人に見返りを求めてはならない。
 しかしながら、その行動は他人が見ている。
 一番の宝は、人望だと思う。人は宝。他人を平気で裏切るような者はいずれ自分の首を絞めるだろう。

──閑話休題。

 やりたいことがどんなに多くても、一日は二四時間しかない。
 効率的にやらなければ、なにも成せないまま一日が終わるだろう。
 そしてやりたいことが十分にやれないまま、死を迎えるかもしれんない。

 そうならないように、人は予定を立て実行する。
 予め予定を立てておけば気も散らないし、集中もできるに違いない。
 慣れたら色んな事が速くなるかもしれない。

 見たらすぐに理解できる、簡略化というのは効力を発揮すると思っている。
 予定表の分かりやすさは自分にプラスになる。習慣にすることで早くなるし、マルチタスクも可能になるかもしれない。そんなわけでずっと日報をつけていたのだけれど、今年の一月に精神のバランスが大きく崩れて、その日その日でやることを決めている状態。
 非常に非効率的である。文字打ちの速さは去年の二倍くらいにはなったけれど。

 仕事にしてもそうなんだけれど、やり方一つなんだよね。
 他人が出来るのに、自分が出来ないのはやり方が非効率的だから。
 もちろん両利きとかなら、人よりも少し仕事を覚えるのが速いかもしれない。
 
 なんだろう。両利きじゃない人って不便じゃない?
 両利きってなろうと思えば簡単になれると思うのね。
 俺は器用ではないけれど、右と左で別々のことが出来るので便利である。
 ぜひとも両利きになることをお勧めする。

 なんの話しだっけ?
 そうそう、追われるのは自分のせいなんだよという話。
 少なくとも、俺はね。
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