感想の書かれやすさは、書きやすさに比例する
文字数 1,606文字
発見とは比較した時に見出されるものだと思う。
例えば文庫本ばかり読んでいると、『上手い』と思うことはあっても具体的に何がどう上手いのか説明できないことがあると思う。つまり、何が『下手』と感じるのか理解しない限り何が『上手い』のか説明できないということ。
それと同じで不便をしっている人は何が便利なのか理解しているので、ありがたいという気持ちを理解しやすい。便利なのは当たり前じゃないんだよ。不便さを解消しようと頑張ってきた人たちがいるから今がある。
何が不便なのか分からなければ、改善のしようはないし新しい発想もし辛い。
感想もまた同じ。感想が書き辛い作品に出逢わない限り、感想の書きやすさの違いは理解できない。
勉強のために上手い作品ばかり読もうとしている人は、遠回りになると思うのもこれが理由。
下手なものを観ない限り、何を上手いと感じるのかわからないからだ。上手いものからは何も学べないのはそれのどういう部分が上手いのか具体的に理解できないため。
人は比較対象になるものがあって初めて具体性を持つ。
例えば文庫本(文庫に限っているのではなく校正後のものを指す)ばかり読んでいると『誤字脱字が多いと読み辛い』や『文の構成がオカシイと読み辛い』ということに気づかない。
何故なら誤字脱字のある文に遭遇しないから。
上手くなりたいなら何が下手なのかを理解する必要があるのだ。
さて、感想を書かれないのは何故か? という話。
感想とは漠然としたものには書けない。
あらすじがあることによって”見どころ”が分かり、”タイトル”によって何がメインなのかがわかる。
あらすじスタイルのタイトルでは、何がメインか否かわかる時もあれば分からない時もある。そこに関しては工夫すればよいだけなので大した問題ではないと思う。
書かれない主な理由
1 感想欄が記載できない設定になっている
2 漠然としていて感想が持てない(短編はこれが多い)
3 感想欄を見ると作者が攻撃的で怖い、もしくは何を書こうが返信が『ありがとうございます、また読んでください』程度なので書く意義、意味を見出せない。(感想欄を読んでいるのが不明という意味合い)
4 その人に問題がある(例えば自作読まれ目的でいろんな人に適当な感想を残しているなど)
1,3,4に該当しなければ理由は大抵2なんだよね。
まず、長編というのはあらすじがよっぽど下手でない限り、なにかしらの感想を書くことはできる。
それが初期に書けるかどうかは上手さと関係してくるとは思うが。
どんなに下手でも、読んでいるうちに登場人物の良いところや世界観の良いところなどは分かってくる。それが好きな方向性の話ならば感想を書くことはできるはず。
ただし、誰でも感想を書けるとは限らないので『書くことのできる読者』を獲得していればというのが前提となる。
では2を解決するにはどうしたらいいのか?
それは『何を書いているのか、表現しようとしているのか』明確にすることである。
お題があって書いているものであれば、『お題は○○』と一言記載しておけばいい。
この時、お題というものが作品への『比較対象物』になるから。
その作品はお題に対してどう感じる作品なのか? お題からは想像できない展開やお題に添った作品であるなど。感想を持ちやすくなるのである。
ではお題があるモノではない場合どうするのか?
それは何を書こうとしているのか明確にすることである。
例えば『○○と○○のボケツッコみの日常』でもいいし『親に捨てられた僕が魔王になるまで』でもいいし。その作品は何を書こうとしているのか明確にすることは『見どころ』を示すことでもある。
すると、それに対して中身がどうであるのか感想が持ちやすくなるのだ。
あらすじは上手いに越したことはないが、方向性を明確にしておくだけでも感想の書かれやすさは格段に違うと思う。
例えば文庫本ばかり読んでいると、『上手い』と思うことはあっても具体的に何がどう上手いのか説明できないことがあると思う。つまり、何が『下手』と感じるのか理解しない限り何が『上手い』のか説明できないということ。
それと同じで不便をしっている人は何が便利なのか理解しているので、ありがたいという気持ちを理解しやすい。便利なのは当たり前じゃないんだよ。不便さを解消しようと頑張ってきた人たちがいるから今がある。
何が不便なのか分からなければ、改善のしようはないし新しい発想もし辛い。
感想もまた同じ。感想が書き辛い作品に出逢わない限り、感想の書きやすさの違いは理解できない。
勉強のために上手い作品ばかり読もうとしている人は、遠回りになると思うのもこれが理由。
下手なものを観ない限り、何を上手いと感じるのかわからないからだ。上手いものからは何も学べないのはそれのどういう部分が上手いのか具体的に理解できないため。
人は比較対象になるものがあって初めて具体性を持つ。
例えば文庫本(文庫に限っているのではなく校正後のものを指す)ばかり読んでいると『誤字脱字が多いと読み辛い』や『文の構成がオカシイと読み辛い』ということに気づかない。
何故なら誤字脱字のある文に遭遇しないから。
上手くなりたいなら何が下手なのかを理解する必要があるのだ。
さて、感想を書かれないのは何故か? という話。
感想とは漠然としたものには書けない。
あらすじがあることによって”見どころ”が分かり、”タイトル”によって何がメインなのかがわかる。
あらすじスタイルのタイトルでは、何がメインか否かわかる時もあれば分からない時もある。そこに関しては工夫すればよいだけなので大した問題ではないと思う。
書かれない主な理由
1 感想欄が記載できない設定になっている
2 漠然としていて感想が持てない(短編はこれが多い)
3 感想欄を見ると作者が攻撃的で怖い、もしくは何を書こうが返信が『ありがとうございます、また読んでください』程度なので書く意義、意味を見出せない。(感想欄を読んでいるのが不明という意味合い)
4 その人に問題がある(例えば自作読まれ目的でいろんな人に適当な感想を残しているなど)
1,3,4に該当しなければ理由は大抵2なんだよね。
まず、長編というのはあらすじがよっぽど下手でない限り、なにかしらの感想を書くことはできる。
それが初期に書けるかどうかは上手さと関係してくるとは思うが。
どんなに下手でも、読んでいるうちに登場人物の良いところや世界観の良いところなどは分かってくる。それが好きな方向性の話ならば感想を書くことはできるはず。
ただし、誰でも感想を書けるとは限らないので『書くことのできる読者』を獲得していればというのが前提となる。
では2を解決するにはどうしたらいいのか?
それは『何を書いているのか、表現しようとしているのか』明確にすることである。
お題があって書いているものであれば、『お題は○○』と一言記載しておけばいい。
この時、お題というものが作品への『比較対象物』になるから。
その作品はお題に対してどう感じる作品なのか? お題からは想像できない展開やお題に添った作品であるなど。感想を持ちやすくなるのである。
ではお題があるモノではない場合どうするのか?
それは何を書こうとしているのか明確にすることである。
例えば『○○と○○のボケツッコみの日常』でもいいし『親に捨てられた僕が魔王になるまで』でもいいし。その作品は何を書こうとしているのか明確にすることは『見どころ』を示すことでもある。
すると、それに対して中身がどうであるのか感想が持ちやすくなるのだ。
あらすじは上手いに越したことはないが、方向性を明確にしておくだけでも感想の書かれやすさは格段に違うと思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)