努力には難しい基準がある
文字数 1,525文字
俺が人生の中で努力していることと言えば、他人と仲良くすることである。
「は?」
って言われそうだが。
俺はいつも思うんですよ。
『喧嘩するのは仲のよい証拠』
に関して「どこがだ?」と。
仲が悪いから喧嘩になる。
仲が良い人たちとは『価値観があう人達』なので、通常喧嘩にはならない。
そして仲良くしたい相手には『理解を示す』ものなんだよね。
露国とウクライナは戦争をしている。
仲が良いと思いますか? って話。
どう見たって、仲が悪いでしょう?
喧嘩の国規模は戦争なんですよ。
『喧嘩するのは仲のよい証拠』なんていう奴は、何も見えてないアホだとしか思わない。
こういう人は友達がいないんだろうなと思う。
俺もいないけれどね!
仮に合わなくても、理解を示そうとしてくれる人というのは『穏やか』なんですよ。
価値観が合わなくても『仲良くしたい』が伝わってくるので、価値観の合わない話についての論議はしないことにしようとなる。それが譲歩と言うもの。
他人にいつまでも噛みついて、終わりにしないのは『自己中』なだけなの。
どんなに何を言おうが、他人の価値観は変わらないし、変えようとするのは傲慢なのね。
俺は努力しないと他人と仲良くすることが出来ない。
何故なら価値観が合わないから。
普通の人は『やりたくないことはやらない』んですよ。
でも俺は違う。
『やるべきだ』と思ったことに関しては自分が納得するまでやる。
やりたくないからやらないというのは、俺にとっては怠慢以外の何物でもない。
ただし、それが凄くストレスになり吐き気がするほど大変なので、人にやれとは思わない。
例えば、レビュー活動。
まともなレビューが書かれるべきだと、俺は色んなレビュー欄をみて思った。
俺自身がレビューを欲しいと思ったことがないにも関わらず。
そんなの余計な世話なんですよ。
でも俺は魔王なので、そうあるべきだと思ったら見本を見せるべきだと思うのね。
人にやれとは言わない。
俺がそうしたいからそうする。
その結果、俺は特に読みたいと思っているわけでもないけれど、たくさん作品を読み、
「なんでこんなところに空行すんの?」
「あらすじ下手過ぎじゃね?」
「いつ本題に入るんだ?」
「一文改行字下げは読み辛いから止めて欲しい(これやるなら字下げしない方が読みやすい)」
「なんで語尾がいつも”た”なの? 体言止め、倒置法知らないの?」
そんな風にイライラしながらレビューを書いてきたわけですよ。
でもそれはイコール学びであった。
創作論は書けるし、あらすじの書き方も作成できる。
何より『他人のふり見て我がふり直せ』で、自分の作品のセルフチェックに繋がる。
いろいろと有意義でしたよ。
ストレスが大変だったけれど。
勘違いしやすいのは、上手い人から何かを学ぼうとすること。
こんなの何も学ばないんですよ。
下手だから気づきがある。
これはどうなの? と考えることが成長に繋がるのね。
成長しない人は他者の作品を読まない、自分の作品を読み返さない。
そして何がダメなのか分からない人と言うのは、基礎が分かっていない人。
小説を書く基礎と読まれる基礎は別物なのね。
俺は読まれなくて当然。
だって自分が読みたいものを書いているのだから。
諦めなさいと言いたいの。
どんなに努力をしても、凡人に対し何が共感性を生むのか学ばない人はヒット作なんて書けない。
諦めたくなければ、学べ。
そこからが真のスタート。
学べば、自分が趣味で書いていくのかそれとも小説家に向いているのか分かるはず。
天才と鬼才には努力が必要。
小説家になれる可能性を秘めているのは凡人を理解し、凡人から鬼才や天才になれた人なのだ。
「は?」
って言われそうだが。
俺はいつも思うんですよ。
『喧嘩するのは仲のよい証拠』
に関して「どこがだ?」と。
仲が悪いから喧嘩になる。
仲が良い人たちとは『価値観があう人達』なので、通常喧嘩にはならない。
そして仲良くしたい相手には『理解を示す』ものなんだよね。
露国とウクライナは戦争をしている。
仲が良いと思いますか? って話。
どう見たって、仲が悪いでしょう?
喧嘩の国規模は戦争なんですよ。
『喧嘩するのは仲のよい証拠』なんていう奴は、何も見えてないアホだとしか思わない。
こういう人は友達がいないんだろうなと思う。
俺もいないけれどね!
仮に合わなくても、理解を示そうとしてくれる人というのは『穏やか』なんですよ。
価値観が合わなくても『仲良くしたい』が伝わってくるので、価値観の合わない話についての論議はしないことにしようとなる。それが譲歩と言うもの。
他人にいつまでも噛みついて、終わりにしないのは『自己中』なだけなの。
どんなに何を言おうが、他人の価値観は変わらないし、変えようとするのは傲慢なのね。
俺は努力しないと他人と仲良くすることが出来ない。
何故なら価値観が合わないから。
普通の人は『やりたくないことはやらない』んですよ。
でも俺は違う。
『やるべきだ』と思ったことに関しては自分が納得するまでやる。
やりたくないからやらないというのは、俺にとっては怠慢以外の何物でもない。
ただし、それが凄くストレスになり吐き気がするほど大変なので、人にやれとは思わない。
例えば、レビュー活動。
まともなレビューが書かれるべきだと、俺は色んなレビュー欄をみて思った。
俺自身がレビューを欲しいと思ったことがないにも関わらず。
そんなの余計な世話なんですよ。
でも俺は魔王なので、そうあるべきだと思ったら見本を見せるべきだと思うのね。
人にやれとは言わない。
俺がそうしたいからそうする。
その結果、俺は特に読みたいと思っているわけでもないけれど、たくさん作品を読み、
「なんでこんなところに空行すんの?」
「あらすじ下手過ぎじゃね?」
「いつ本題に入るんだ?」
「一文改行字下げは読み辛いから止めて欲しい(これやるなら字下げしない方が読みやすい)」
「なんで語尾がいつも”た”なの? 体言止め、倒置法知らないの?」
そんな風にイライラしながらレビューを書いてきたわけですよ。
でもそれはイコール学びであった。
創作論は書けるし、あらすじの書き方も作成できる。
何より『他人のふり見て我がふり直せ』で、自分の作品のセルフチェックに繋がる。
いろいろと有意義でしたよ。
ストレスが大変だったけれど。
勘違いしやすいのは、上手い人から何かを学ぼうとすること。
こんなの何も学ばないんですよ。
下手だから気づきがある。
これはどうなの? と考えることが成長に繋がるのね。
成長しない人は他者の作品を読まない、自分の作品を読み返さない。
そして何がダメなのか分からない人と言うのは、基礎が分かっていない人。
小説を書く基礎と読まれる基礎は別物なのね。
俺は読まれなくて当然。
だって自分が読みたいものを書いているのだから。
諦めなさいと言いたいの。
どんなに努力をしても、凡人に対し何が共感性を生むのか学ばない人はヒット作なんて書けない。
諦めたくなければ、学べ。
そこからが真のスタート。
学べば、自分が趣味で書いていくのかそれとも小説家に向いているのか分かるはず。
天才と鬼才には努力が必要。
小説家になれる可能性を秘めているのは凡人を理解し、凡人から鬼才や天才になれた人なのだ。
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