6.イスラエルの不信仰
文字数 1,334文字
キリストから切り離されて呪われたものとなることも厭わない、とさえ思っています。
モーセは主のもとに戻って言った、
「ああ、この民は大きな罪を犯しました。彼らは金の神々を造ったのです。
今もしあなたが彼らの罪をお赦しになるなら――。
そうでなければ、どうぞあなたが書き記された書から、わたしの名を消してください」。
すると、王は身を震わせ、門の上の部屋に上って行って泣いた。
彼は上って行きながらこう言った、
「わが子アブサロムよ、わが子よ、わが子アブサロムよ。
わたしがお前の代わりに死ねばよかったのに。アブサロムよ、わが子、わが子よ」。
割礼は律法に記されたことだけれど、パウロは心の割礼が大事だと言った。
ユダヤ人は割礼を肉体的に行っているけれど、それは外面的なものに過ぎない。
心の中に信仰を持たずに割礼を行ったとしても無意味なものだと言う。
しかしそうだとすると、ユダヤ人ではない人々を神が救わないことになってしまう。
そのような考えは間違っているのだとパウロは主張しているんだ。
ユダヤ人ではなくても、律法に逐一従わなくても、信仰によって人は救われる、と。
ところが、イスラエルは、義をもたらすものとしての律法を追い求めましたが、
そのような律法には達しませんでした。
義が得られるのは、信仰によるのではなく、行いによるものと考えたからです。
彼らはつまずきの石につまずいたのです。
同じ主が全ての人の主であり、呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。
「主の名を呼び求める者は、すべて救われる」のです。
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。
それは主が仰せになったように、シオンの山とエルサレムに救いがあるからだ。
主が呼ばれた残りの者らのうちにも。