16.ペトロの回復
文字数 1,793文字
イエスは十字架にかけられて死んだ。
遺体はアリマタヤのヨセフとファリサイ派のニコデモによって葬られた。
その後復活し、最初にマグダラのマリアの前に姿を現す。
イエスは彼女に仰せになった、
「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。
マリアは園の番人だと思って言った、
「あなたが、もしあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。
わたしがあの方を引き取ります」。
イエスは、「マリア」と仰せになった。
マリアは振り返って、ヘブライ語で、「ラボニ(先生)」と言った。
感動的な場面やな。
悲嘆に暮れとったけど、振り返ったらそこにイエス様がおったんや。
その後、イエスは弟子たちの前に現れて聖霊を授けた。
しかし十二使徒の一人、トマスは簡単には信じなかった。
十字架刑によるイエスの手の穴に指を、脇腹の穴に手を入れないと信じないと言ってね。
復活はすれど傷はふさがっていないはずと?
いったいどういう思考回路なのかしら。
厳密に言うと分からない。
おそらくそうしたんだろう、というのが伝統的な解釈になる。
聖書には「触れた」とは明確に書かれていないんだ。
『ヨハネによる福音書』第20章27-29節
それから、トマスに仰せになった、
「あなたの指をここにあてて、わたしの手を調べなさい。
あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
トマスは答えて言った、「わたしの主、わたしの神よ」。
イエスはトマスに仰せになった、
「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである」。
イエス様も「見た」とは言うてるけど「触れた」とは言うてへんな。
実は触ってない、って可能性もありそうやわ。
その目で見て信じたのなら、手を傷口に入れるなど恐れ多いでしょう。
イエスは三度、ペトロに「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねられた。
三度尋ねられ、ペトロは悲しくなって言った、
「主よ、あなたは何もかもご存知です。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存知のはずです」。
3回の質問?
これってペトロが3回、イエス様を「知らん」言うたんと関係してそうちゃうか?
まさしく。
イエスが3回もペトロに愛を確認したのは、ペトロの回復だと言われている。
ペトロは3回「知らない」と言ったことでイエスを裏切ったとも言えるからね。
3回も「愛」という言葉を使っているけれど、最初の2回と3回目は異なる「愛」だった。
1回目と2回目はアガパオ(agapaô)で、これはアガペー、神の愛だ。
3回目はフィレオ(phileô)で、フィリア、友愛となる。
古代ギリシアには4種類の愛があるのでしたわね。
エロス(性愛)、フィリア(友愛)、ストルゲー(家族愛)そしてアガペー(博愛)。
3回目に友愛を持ってくるんは、何か意図があったんやろか。
特に意味は無い、単なる置き換え可能な言葉だ、と言う人もいる。
カトリック司祭のロマーノ・グアルディーニはペトロに気づかせるものだと言う。
ペトロの3回の裏切りを罰しているのだということをね。
実際のところは分かりませんが……。
何かしら意図のあるものと思うのは自然ですわね。
アガペーが神の愛で最上であれば、そこからグレードダウンしているのですし。
フィリアとアガペーの順が逆であれば、おそらくペトロは悲しまなかったでしょう。
より深い愛の確認であれば歓喜して「はい」と答えそうなものですし。
この後、イエスが愛していた弟子についてペトロは「どうなるのですか」と尋ねる。
イエスは「あなたに何の関わりがあるのですか」と、けんもほろろ。
せっかく3回の裏切りを回復してもらったばかりだと言うのに、最後まで一言多い。
まあ、そういうキャラ設定なのさ。
これにて4つの福音書はお終いだ。
ただし、正典に含まれない福音書が多数あることだけは覚えておこう。
『ヨハネによる福音書』第20章24節「あとがき」
これらのことについて証しをし、また、これらのことを書き記したのは、この弟子である。そして、わたしたちは、この弟子の証しが真実であることを知っている。しかし、イエスの行われたことは、このほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界さえも、その書かれた書物を収めきれないであろうと、わたしは思う。
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