5.人身御供
文字数 1,699文字
太陽神ウィツィロポチトリは日々の戦いで血を失っているとされる。
その血を満たさなければ世界が終わってしまうから、延命のための生贄を捧げるんだ。
それは毎年行われ、だいたい2万人以上だと言う。
(The Enigma of Aztec Sacrifice by Michael Harner 参照)
アブラハムは息子イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せた。
そして息子を刃物で屠ろうとしたところ、天使がアブラハムにやめるように伝えた。
アブラハムが息子でさえも惜しまず神に捧げるという信仰の強さが確認出来た。
ゆえに神はそれで良しとして、雄羊を息子の代わりとしてアブラハムに与えた。
アブラハムはその雄羊を焼き尽くし神に捧げたのだ。
しかしそんなことをしても「罪を取り除くことはできない」
『ヘブライ人への手紙』はそんな風に語る。
そしてそのような古い生贄ではなく、新しい生贄が捧げられた。
それこそがイエス・キリストなのさ。
神のみ旨に従って、イエス・キリストの体が一度だけささげられることによって、
わたしたちは聖なるものとされたのです。
それは重要な人物である方が効果が高いと思われとった。
そんで今、王様どころやない、神の子が生贄に捧げられた……。
そう考えると確かにとんでもないことやな。
ちゅうか、それ以上に価値のある捧げものなんかこの世にあらへん。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぶ契約はこれである、と主は仰せになる。
わたしの律法を彼らの心に刻み、彼らの思いに書き記そう。
そして、わたしはもはや彼らの罪と、その不義を思い起こすことはしない」。
これらの赦しのある所には、罪を赦す献げ物は、もはや必要ではありません。