14.イエスは真のぶどうの木
文字数 1,435文字
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶ者はすべて、もっと豊かに実を結ぶように、父がきれいに刈り込んでくださる。
急に「わたしはぶどうの木」だなどと、どうかいたしましたか?
疲れて植物にでもなりたがっているのかしら。
いや、そんなわけあらへん。
これはイエス様のたとえ話やろ。
もちろん、イエス・キリストが急に植物になったりはしない。
「たとえ話」とか、メタファーと言ったものだね。
ぶどうの木のたとえも急に出てきた話じゃない。
ユダヤの長い伝統で、神はぶどう園の栽培者に位置付けられている。
『詩編』第80章9-10章
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
神様がエジプトの脱出を助けて、カナンの地に導いた話やな。
ぶどうの木はイスラエルの民を意味しとるんやろ。
『エゼキエル書』第15章2-4章
人の子よ、ぶどうの木はほかの木、
すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪(たきぎ)として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
ぶどうの木はイスラエルの民で、森の木々が異邦人といったところかしら。
もっと言えば、バビロニアに滅ぼされる民たち。
『ホセア書』第10章1節
イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木。
その実が多くなればなるほど、彼は祭壇を増やした。
その地が豊かになればなるほど、柱を前より美しくした。
イスラエルが何故滅びたのか。
それは偶像崇拝を熱心に行ったからだ、という論調だ。
ここで言う「柱」はバアルのことを意味している。
そう言えば日本やと神様を数えるの、「柱(はしら)」って言うやん。
あれって何でなんやろ。
『古事記』や『万葉集』の時代、人々は樹に神が宿ると考えていた。
樹木が敬意を払う対象になって、ご神体や神像を「柱」で数えるようになったとか。
「柱」という漢字も、「木」に「主」がくっついて出来ているだろう?
この「主」という漢字は、火ともし台の皿の上で火が燃えている象形なんだ。
まさしく木に神が宿っている……なんて風に見えてこないかな。
ご丁寧に、日本人はよその神々も柱で数えますのね。
わたくしは木に宿ったりしませんのに「ソロモン72柱」などと。
通常、悪魔は「柱」ではなく「匹」とか「人」「頭(とう)」で数える。
「ソロモン72柱」は訳者のセンスなのかな。
「ソロモン72匹」だとちょっと弱そうだし。
まあ、悪魔であっても敬意を示す表現だと受け取っておこう。
それで?
イエスは神の子として自身を「ぶどうの木」と表現した。
そしてその枝は弟子たちで、実は信徒たちといったところかしら。
もっと信徒を獲得してこいという説教ですわね。
さすがにそれは違うと思うよ。
実とは行いに対する結果のことを指す。
英語圏では「実り多きキリスト教徒(fruitful Christian)」なんて言葉もある。
実を結ぶには相応の努力が必要だろう。
ただ単にイエスの近くにいるだけではダメなのさ。
互いに愛し合い、日々の試練を乗り越えてこそ実り多き日々が得られる。
イエス様と共にあり、艱難辛苦を乗り越える。
そしたら、ぶどうがぎょうさん手に入るんや。
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