9.善きサマリア人

文字数 1,891文字

前回話した通り、サマリア人とはユダヤ人の兄弟みたいなもんだ。

それも、少々仲の悪い、ね。

何せ十二使徒のヤコブとヨハネが焼き殺そうとするくらいですもの。

しかし、血に飢えた恐ろしい連中ですこと。

そして「善きサマリア人」について話そう。

これはとある律法学者がイエスと問答した時のことだ。

一人の律法の専門家がイエスを試みようとして尋ねた、

「先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか」。

するとイエスは逆に問いかけた。

律法にどう書いてあるのか、あなたはどう読んでいるのか、と。

律法学者は「主を愛せ」「隣人をあなた自身のように愛せ」と答えた。

これは『申命記』や『レビ記』に沿った答えだ。

『申命記』第6章5節

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。

『レビ記』第19章18節

復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。

お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。

皆愛し合って仲良うするんが一番やで。
イエスは仰せになった、

「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう」。

これもまた『レビ記』に沿った答えだ。
『レビ記』第18章5節

わたしの掟と定めを守れ、人はそれを行うことによって生きる。

わたしは主である。

あら、問答が終わってしまいましてよ。

律法学者の言うことをイエスが是としては、仲良しこよしで終いでは?

続きがあるから心配しなくていいよ。

この律法学者は自分を「正当化」するために「隣人とは誰か」を問うた。

「正当化」というのは、自分は正しい行いをしているという確認の意図だね。

彼自身は律法を正しく行っていると確信していたのさ。

その彼の確信を打ち崩す言葉。

それこそが「善きサマリア人」のたとえなんだ。

ある人が強盗に襲われ、半殺しとなった。

一人の祭司がその人を見たが、道の向こう側を通っていった。

同じようにレビ人が通りかかったが、彼も道の向こう側を通っていった。

なんでや。

死にかけて苦しんでる人がおんのに無視するんか。

面倒事に関わりたくない……、ということでしょう。

下手に関わって、どんなトラブルが舞い込むか分かりませんもの。

ちなみに僕の飼い主も何度か、道で寝そべる男や女をスルーしたそうだ。

別に半殺しとかではなく酔っ払いだとは思うけれどね。

実はここで言う「半殺し」というのが非常に重要なんだ。

例えば身ぐるみはがされて困っているとかであれば、祭司もレビ人も見捨てないだろう。

そんなケースを語っても、それは単にイエスが適当なでっち上げをしているに過ぎない。

……なるほど。

これは生死の確認に関する話ですのね。

それが死体である可能性がある場合、聖別されたものは近づけない。

『民数記』第6章6-7節

主のものとして身を聖別している期間中は、死体に近づいてはならない。

たとえ父または母、兄弟または姉妹が死んでも、彼らのために身を汚してはならない。

そうか。

別に祭司とかレビ人が嫌な人らってわけやないんや。

彼らは彼らなりの事情があって、そうせざるを得ないんやな。

死を確認するには触れることも必要になるだろう。

そのようなことをして汚れを受けるよりも、神聖な儀式を優先したのさ。

(George Bradford Caird, The Gospel of St. Luke, Black, 1968, p. 148.参照)

そんな時、とある旅のサマリア人が通りかかる。
サマリア人は半殺しとなったその人に近寄り、手当をした。

ろばに乗せて宿に連れて行き、介抱した。

そしてデナリオン銀貨二枚を宿の主人に渡して言った、

「この人を介抱してください。費用がかさんだら帰って来た時に支払います」

めっちゃええ人やん。

手間暇惜しまず、お金まで払ってくれるなんて。

デナリオン銀貨二枚と言えば、労働の賃金二日分。

日本で言えば二万円弱といったところかしら。

そんな金を見知らぬ他人に払えるなんて、驚きですわね。

サマリア人は先に見た通り、ユダヤ人にとっては相いれない微妙な相手だ。

しかしだからと言って、死にかけの人を放置するほど敵対しているわけでもない。

その意味でこの設定にはリアリティがある。

同胞に無視され、ちょっと嫌な相手が自分を助けてくれる。

そんなシチュエーションがあり得るんだよ。

三人のうち、強盗に襲われた人の隣人となったのは誰か。

そう問われた律法の専門家は「憐れみを施した人です」と言った。

イエスは仰せになって、

「では、行って、あなたも同じようにしなさい」。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のこの世の中。

どれほどの者が「同じよう」に出来るものかしら。

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登場人物紹介

【ミカ】(性別:無性 時々 男性)

神様の命令で人々を見守ることになった大天使ミカエル。サタニャエルくんに色々教えてもらう生徒役。ただ何も知らないお馬鹿ではなく、それなりに常識人。特に戦争に関することはなかなか詳しい。無意味な殺戮は嫌うが、戦争そのものは悪と見做さない。ビヨンデッタの作った「ケーキ」にトラウマがある。


(うんちく)

その名は「神に似たるものは誰か」という意味を持つ。ミカエルはMa-Ha-Elと分解され、「偉大なる神」の意味ともされる。天軍の総帥であり、右手に剣を持った姿で描かれる。


聖書において天使の翼に関する記述は無い。その造形はギリシア神話における勝利の女神ニケ(Nike)が由来であると考えられている。


ミカエル、最大の見せ場は新約聖書『ヨハネの黙示録』12である。そこには以下のような記載がある。

「かくて天に戰爭おこれり、ミカエル及びその使たち龍とたたかふ。龍もその使たちも之と戰ひしが、勝つこと能はず、天には、はや其の居る所なかりき。かの大なる龍、すなわち惡魔と呼ばれ、サタンと呼ばれたる全世界をまどはす古き蛇は落され、地に落され、その使たちも共に落されたり。」

おそらくは翼の生えた勝利の女神と、戦争における戦士の姿とが融合され、現代におけるミカエルのイメージを形作ったのであろう。

【サタニャエル】(性別:???)

ミカちゃん一人だと心配なので付いて来た。色んなことに詳しい黒猫。「サタニャエル」を名乗っているが、悪魔サタナエルと同一視されるかは謎。ビヨンデッタから「サマエル」と呼ばれてもおり、そうであれば楽園でイヴを誘惑した蛇であるとも言える。非常に好奇心旺盛で勉強熱心。たまに悪魔っぽいが、基本的には常識的。


(うんちく)

「猫に九生有り」のことわざは、高いところから落ちてもうまく着地してしぶとく生き残る、タフさから来ていると考えられる。何故「九生」なのかは定説は無いが、エジプト神話の猫頭の女神バステトが九つの魂を持っていたことに由来するのではないか、と言われる。そのようにしぶとい猫を殺すには「好奇心」が効果的であるとことわざは言う(「好奇心は猫を殺す」)。つまり人に知恵を与えたサマエルが、その罪によって神の罰を受けることの暗示として、サタニャエルというキャラクタは造られている。


サマエルは「神の悪意」という意味を持つ。12枚の翼を持つことから、堕天使ルシファーとも同一視される。

【ビヨンデッタ】(性別:男性 or 女性)

ミカを「お姉さま」と慕う悪魔の少女。その正体はソロモン72柱序列第1位ともされる魔王ベルゼブブ。ニーチェを好み、強き者が強くある世界こそが最も美しいと考えている。人間を「草」と呼び、その愚鈍さを嘲笑する。


(うんちく)

作中にあるように、ベルゼブブの由来はウガリット神話における豊穣の神バアル・ゼブル。バアルの信仰は旧約聖書において偶像崇拝として忌み嫌われ、度々敵対した。バアル・ゼブルをバアル・ゼブブと読み替えることで、その意味を「気高き主」から「蠅の王」へと貶めた。


「ビヨンデッタ」の名前は幻想小説の父J・カゾットの『悪魔の恋』に由来する。主人公のアルヴァーレは知的好奇心により悪魔ベルゼブブを呼び寄せ、そのベルゼブブは「ビヨンデット」という名の少年として彼に仕えた。やがて「ビヨンデット」は「ビヨンデッタ」という少女となり、アルヴァーレに強く愛を語る。そしてアルヴァーレは苦悩の末にビヨンデッタを愛してしまう。あまりにあっけない結末についてはここで語らない。


ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は死の象徴として蠅が描かれる。また、理性を凌駕する闘争心は豚の首として表れた。作中でビヨンデッタが豚肉を好んでいるのも、そうした背景による。

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