1.はじめにロゴスありき
文字数 1,200文字
初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
「初めにみ言葉があった」とか「はじめに言葉ありき」ってよう聞く言葉やな。
言葉があるから色んなもんが存在できるとか、そういう意味やろか。
完全に否定されるものでもないだろうけれど、ニュアンスは異なるかな。
この「言葉」というのは即ちイエス・キリストを意味している。
イエスがあり、イエスは神とともにあって、イエスは神であった。
「言葉」がイエスを指すとは、少々理解し難いですわね。
非常に抽象的な表現に思えましてよ。
『ヨハネによる福音書』第1章1節の解釈は非常に混乱したという。
そのせいで初期キリスト教においてはいくつかの異端が生まれている。
(David A. Reed. "How Semetic Was John? Rethinking the Hellenistic Background to John 1:1."参照)
例えば、サベリウス主義。
彼らは「言葉」を独立した神であるとした。
つまりイエスと神は別々の神ということで、三位一体の否定となる。
うーん、それやと神様が唯一絶対ってことにならんくなりそうやな。
多神教みたいなもんやで。
また、似たようなものにアリウス主義がある。
そこではイエスは人と同じ被造物で、神の養子になることで神性を得たとされる。
イエスは神そのものではなく、父に劣る神だと言うのさ。
神の下にイエスがいる。
秩序があって良いように思えますわね。
わたくしは気に入りましてよ。
ともあれ「言葉」がイエスであるという点では一致している。
この「言葉」についてだけれど、これはギリシア語でロゴス(Logos)と書かれていた。
ロゴスという言葉自体がなかなか難解で解釈が難しい。
ロゴスの持つ意味は確かに色々ありますわ。
「言葉」の他には「談話」や「理由」、「論理」など。
「論理」を表す英語のロジック(Logic)などはロゴスに由来いたします。
ほんなら、「はじめに言葉ありき」やのうて「はじめに論理ありき」でもええんか?
20世紀アメリカの哲学者ゴードン・クラークはそう訳した。
そうすることで、聖書に古典論理が含まれていることをほのめかしたらしい。
個人的にはお気に入りだ。
言葉を言葉たらしめるには、論理が必要だからね。
支離滅裂な単語の羅列でもいいなんてことはあるまいさ。
興味深い訳として、中国語訳聖書では「道(Tao)」とされているんだ。
太初有道,道與神同在,道就是神。
「道」は道教において、美や真実の根元などを広く意味する言葉とされている。
ギリシア哲学におけるイデアみたいな扱いだね、厳密には異なるけれど。
調べれば調べるほど、終わりの見えない深い沼に沈んでいくね……。
「言葉」が先にあればこそ「光あれ」と言って世界を創造できたという。
とりあえず、そういうもんかと思って先に進もう。
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