4.パンと魚の奇跡
文字数 1,786文字
福音書においてイエスは様々な奇跡をなした。
それらは重複している箇所が多い。
けれど四つの福音書全てに載っている奇跡は二つしかないんだ。
一つは容易に想像がつきましてよ。
イエス自身の復活ですわね。
磔刑で死んでおしまいでは、少々お寂しいでしょうから。
その通り。
復活した後、ユダを除く十一人の弟子の前に現れた。
その場面が『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』の全てに書かれている。
そしてもう一つの奇跡。
それはたった五つのパンと、二匹の魚を五千人に分け与えたことだ。
五つのパンを五千人に?
そんなん、粉々やろ。
魚もどないして分けたらええんや。
ところが聖書では、全員が「満腹するまで食べた」と言う。
決してパンの切れ端を食べたわけじゃない。
いったいどういったからくりかしら。
一つのパンを二つに、二つのパンを四つに増やしたとでも?
太宰治の短編小説『駆け込み訴え』ではそんな風な描写があるね。
『駆け込み訴え』
(イスカリオテのユダの言葉)
五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。
この小説ではイエスがユダの頑張りに報いてくれない……、
とユダが感じて、最後には裏切るという展開だけどね。
されど、五千人に食べさせるほどのパンとは。
どれほどのお金がかかるのかしら。
二百デナリオン、と聖書には書かれている。
一日労働して一デナリオン銀貨を稼ぐのがやっとだ。
つまり二百デナリオンは、半年以上の稼ぎになる。
ユダにそれだけ工面する能力があるのでしたら、
それこそ金銭目的で裏切るなどありえませんわね。
本当のところは分からないさ。
それこそ、僕ら悪魔の力を使ってパンを増やしたのかもしれないよ。
罰当たりなこと言いなや。
サタニャエルくんは友達やけど、それとこれとは別やからな。
パンを与える話、実は『列王記下』に似たものがある。
預言者エリシャが二十個のパンを百人に分け与える場面だ。
『列王記下』第4章43節
彼の召使は答えた、
「どうしてこれ(二十個のパン)を百人もの人に分け与えられましょう」。
しかし、エリシャは言った、
「人々に与えて食べさせなさい。主は仰せになる、『彼らが食べても残るだろう』」。
他にパンではないけれど、少量のものをより多くする場面がある。
同じく『列王記下』の記載だ。
あるところに負債を抱えた未亡人がいて、子供を奴隷にされそうになる。
預言者エリシャは彼女が持つ油の小瓶から、他の器に注がせた。
油は他の器を全て満たすまで無くならず、それを売って負債を返せることになった。
しかも残りの油でまだ生活が続けられるという。
イエスの話も同じさ。
五千人を満腹させてなおパンと魚は余ったんだ。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、賛美をささげてパンを裂いた。
それを弟子たちに渡し、みなに配らせ、二匹の魚もみなに分け与えられた。
みなは満腹するまで食べた。
残ったパン切れと魚を集めると、十二の籠にいっぱいになった。
パンを食べた人は男五千人であった。
エリシャの奇跡よりも規模が大きくなっている。
神はその求めに応じ、規模の大小に関わらず、それを与えるのさ。
通常、ユダヤ人は女子供を数えなかったらしい。
その習慣に従ったものだよ。
だから五千人「以上」いたと考える方が自然かもしれないね。
ちなみに『マタイ』と『マルコ』だと、似た話がもう一つある。
それは七つのパンと少しの魚を増やして四千人に食べさせるというものだ。
数が違うけれど、流れはだいたい同じだね。
そのような話を載せることに何か意図はあったのかしら。
正直、解釈は難しい。
ある人はパンは隠喩であって、神の言葉を表すと言う。
またある人は、これはローマ人に向けて書かれたものだと言う。
神の愛は非ユダヤ人にも存分に注がれるってね。
そんな難しく考えんでええやん。
イエス様がお腹いっぱい食べさせてくれた。
やっぱイエス様はすごい人やで。
下手にそれっぽい理屈で納得してしまうより良いかも。
分からないものを、分からないままにしておくのも一つの選択だ。
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