第3話 情熱の譚詩曲 その1

文字数 4,719文字

 四月になり、研究室生活が始まった緑祁。大学院生の先輩に指導され、まずは実験に用いる昆虫の世話を覚える。

「害虫の研究室だったっけ?」

 香恵は緑祁の一人暮らしの下宿先にいて、家に戻ってきた彼に話しかけた。

「うん、そうだよ。先輩も優しいし、同級生とも気が合うんだ。これなら一年間、卒業まで頑張れそうだ。そしてその先も……」

 大学を卒業したら、三人の同級生たちと同じく院に進む。緑祁の成績なら、推薦で進めるだろう。院に進んだら就職か、それとも博士課程に行くか。そこは研究との相性にもよるので、現段階ではわからない。

「他にやるべきことがあるならそれを優先したいけど、今はないからね。学生の本業、研究と学問を究めよう!」
「悪くはないわね」

 将来に対し明確なビジョンがない彼だが、香恵はそれでいいのだと言う。夢に固執しない方が、柔軟に生きることができると思っているし、【神代】の仕事にも従わなければいけないのだから。
 夕食の準備は香恵がしてくれた。二人でローテーブルを囲ってテレビをつけて食べる。

「いただきます」

 ご飯の時、香恵は緑祁に、

「今年は忙しくはないの?」
「え? ああ、サークルとか部活動の勧誘のことだね? そりゃあ僕じゃ断れないから、頼まれた分には、できる限り参加はしたよ。でも流石にスケジュールは絞った! 結果、そこまで時間を割かずに済んだんだ」

 四年生になって講義も前よりも減ったが、だからと言ってバイトやサークルの助っ人は増やさない。相手も緑祁が研究室に所属したのを理解してくれた。
 ほどなくして夕食を食べ終わる。

「ごちそうさまでした」

 皿を洗い終えると緑祁はカバンに入っているノートを開いた。今日の基礎実験のまとめをするのだ。さらに時間が余れば次の実験の予習もする。その他にもゼミの発表の準備もしなければいけず、昆虫関連の論文も読み進める。
 この日緑祁は十一時半までその作業を続け、そして日付が変わる前に寝た。
 次の日になれば大学に行く。水曜日は院生向けの講義が午後にあり、大学院に進むつもりの学生なら受講できるので、内部進学予定のみんなが受けている。緑祁もその中の一人だ。

「おお、永露! 後輩が世話になったな! 合唱部の助っ人、ありがとうよ!」
「いいえそれほどでも。僕にできることってそれくらいだしさ。でも今年の学際はパス」

 ノートを広げ筆記用具も机の上に準備した。後は先生が来るのを待つだけだ。
 だが時間になる前に来たのは、違う人物だった。

「緑祁……。ちょっといい?」

 香恵だ。どうしてか教室の入り口にいる。緑祁は机から立って、

「一体どうしたの?」
「スマートフォンに連絡入れたんだけど、返事よりも先に体が動いてしまったわ」

 香恵の横に、人がいた。見覚えのある男の子だ。

「え、まさか……? 飯盛寛輔……?」

 去年の四月に、自宅周辺で襲ってきた福島の孤児院の子供だ。ただ、そこまで悪い人物ではないという話を絵美たちから聞いている。

「何しに来たんだい……?」

 話しかけても寛輔はうつむき黙っている。この廊下では詳しい事情は聞けないと判断した緑祁は一旦教室に戻ってノートと筆記用具を回収すると友人に、

「ごめん、急な用事ができてしまった! ノート後で写させて! できればレジュメもお願い、僕の分を取っておいてくれ……」

 頼み返事も待たずに教室を飛び出した。


 一旦、寛輔を連れて家に戻る。彼にお茶を出して座布団に座らせ、

「一体、何があったの? どうして寛輔がここに来ているんだい?」

 流石に落ち着けば寛輔もワケを話しだした。

「洋次が最初に言い出したんだ……。【神代】に報復しよう、って……」
「何て愚かなことを……! 無謀過ぎるわ! どうして止めなかったの?」
「それが、できるって言うヤツがいて…」
「洋次じゃない人だね? なら確か……秀一郎か、結?」

 寛輔の仲間と言ったら、その三人だ。提案したのが洋次なら賛成したのはそのどちらか。緑祁はそう予想した。しかし寛輔の口からは、

「鎌村峻ってヤツなんだ」

 全然違う人物の名前が飛び出した。

「だ、誰だそれは?」

 知らない。まず会ったことは絶対にない。顔と名前が全く想像できない。香恵も首を傾げている様子なので、心当たりがないらしい。

「検索してみる…」

 タブレット端末で【神代】のデータベースにアクセスし、名前で検索する。霊能力者ネットワークに情報があればそれを見ることができるが、

「あ、これ! 二年前の四月の話! 天王寺修練のことを告発したのが、鎌村峻……」
「修練だって?」

 緑祁は考える。修練なら【神代】に対する攻撃も不可能じゃない。

「でも修練は今は、【神代】の精神病棟にいるんじゃ?」
「だから、峻の仲間が、修練を助け出すとか言い出して……」
「ん何だって! 病棟を襲うって言うのか!」

 修練の配下は、峻だけではない。紅や蒼もいる。緑祁は会ったことはないが、緑もいた。その四人が洋次たちと結託し、修練の脱獄を企てている。

「【神代】には言ったのかい?」
「ま、まだ……。どうすればいいのかわからなくて、それで緑祁のところに来てしまった…」

 寛輔も寛輔なりに悩んだのだろう。洋次たちは彼の大切な仲間だ。その仲間たちが間違った道を進もうとしているのなら、止めなければいけない。でも【神代】に密告すれば彼らは捕まるだろうし、洋次たちのことを裏切ることにも繋がる。

「いいや、寛輔……。そっちはよく頑張ったよ。ここからは僕らに任せてくれ」

 優しく彼の頭を撫でる緑祁。

「修練の脱獄は、絶対に止めてみせる! その作戦決行はいつなんだい?」
「き、今日の夜十時………」
「今日? しかも十時?」

 反射的に時計を見た。今、午後一時を十分くらい過ぎている。

「あと九時間ね。でもそれくらいあれば余裕だわ!」

 かなり離れているのならもう無理な話になるのだが、【神代】の精神病棟があるのは千葉。青森からなら新幹線で一気に近づける。

「行こう、香恵! そんな無謀なことは止めてみせる!」
「なら、紫電にも伝えた方がいいわ」

 彼女は提案する。相手は洋次、秀一郎、結に加え、峻、紅、蒼、緑。一対七はいくらなんでも無茶だ。できれば紫電とは共闘したくはないのだが、事の深刻さを考えればそんな我儘を通している暇ではない。

「わかった! 香恵は骸と雛臥にも伝えて、紫電の家に来るように言ってくれ! 紫電なら飛行機で移動するはずだ、それなら出発までに時間がある! それに関東圏内なら、辻神にも教えないと!」

 急いでスマートフォンを取り出し、俱蘭辻神にメッセージを送る緑祁。彼なら姉谷病射のことも連れてきてくれるはずだ。
 緑祁と香恵は寛輔を連れ、新青森駅に向かった。そこから新幹線で八戸に移動し、タクシーで小岩井邸へ。

「緑祁……! 話は聞いたぜ」

 紫電と稲屋雪女は、もう準備が完了していた。

「まさかあの修練の配下がもう、釈放されていたとはな……。驚きだぜ」
「一年前のゴールデンウイークにはもう自由になっていたらしいね。協力者が現れること、彼らと出会うことを待っていたんだ……」

 飛行機のチケットはもう購入してくれていた。後は骸と雛臥の到着を待つだけだ。

「まだか……! 骸、雛臥……!」
「焦るな、緑祁! ここから関東まで、飛行機なら一時間半くらいだ。予定の時刻は夜の十時なんだろう? だったら、八時半までにここを出れば十分間に合う!」

 カリカリしている緑祁をなだめる紫電。

「【神代】には通報したのか?」
「したわ。でも、全然話を聞いてくれない……。病棟の結界が破られるわけがない、の一点張りよ……。これじゃあ応援は期待できないわね」

 となると緑祁と香恵の、自分たちで人員を確保しておこうという発想は間違いではなかった。

「お、電話だ」

 緑祁のスマートフォンにかかってきた。相手は辻神。仲間である手杉山姫と田柄彭侯を連れ、すぐに対応してくれたのだ。

「どうだい、辻神?」
「もしもし、緑祁か? 私だ。今、精神病棟の前に着いた」
「どう?」
「猪苗代結、わかるか? アイツが今、病棟に入っていくのが見えた」
「え、もう?」
「でも、襲うとかそういう様子じゃない。普通に入り口から入って、面会にいくつもりみたいだぞ? それに洋次や峻、他のヤツらの姿も見えない」

 今動いても、何もしていない相手に対する確保は無理だ。

「わかった。僕もそっちに向かうから、辻神は見張っててくれ! 何かあったら、いつでも連絡を!」
「了解だ」

 三時間後にようやく骸と雛臥が到着した。

「遅くなって申し訳ない……」
「何言ってるの、まだ午後五時だよ? 十分間に合う時間。さ、行こう」

 雪女は特に文句は言わない。
 そのまま空港に向かって車を出す。紫電が予約した席に搭乗し、空から東京に向かう。

「よし、空港から病棟までバスを借りた。二時間もかからないだろう。辻神からの情報伝達からすると、あまり早く着いても意味がなさそうだ。問題はその十時! そこで洋次や緑の動きを封じる!」

 段々と緑祁は安心してきた。当初は混乱したが、仲間が揃い、そして目的のために動く。対処ができているのだ。

「寛輔、他に洋次たちは何か言っていなかったかい?」
「確か、式神を使う、って」
「式神? でも【神代】の張る結界は、式神のチカラすらも弾くはずよ?」
「内部に札を持ち込むとか、何とか……」
「何!」

 ここで初めて、しまったと思う二人。

「紫電の家で待っていた時に、辻神が……」

 言っていた。結が病棟に入ったことを。その際に式神の札を持ち込んだとしたら……。

「マズい! もう手遅れかもしれない!」
「落ち着いて、緑祁! 機内モードでは連絡は取れないわ。地上に降りてから辻神に頼みましょう。彼にも精神病棟に足を運んでもらって、怪しい札を没収し破壊してもらえば」
「そ、そうだね」

 まだ大丈夫だ。食い止めるための方程式は、そう簡単には揺るがない。

(落ち着け! 大丈夫だから! これ以上、洋次たちに違反切符を切らせるものか! 修練だって……!)

 かつて緑祁は、修練に手を差し伸べることができなかった。二年前のあの夜の光景がフラッシュバックする。あの時、後から悔しい思いを感じた。二度とそんな惨めな感情は抱かないと誓った。
 成田空港に緑祁たちを乗せた飛行機が着陸。紫電に先導され、用意されたバスに乗り込む。

「さ、行くぜ!」

 運転手に目的地を教え、出発する。その間に緑祁は辻神に、何とか病棟に入れないか聞いてみた。

「それはもう無理だ。病棟の受付時間は終わってしまったし、あの中では霊障は使えないんだ。私の蜃気楼で姿を偽るのも不可能だし、山姫の礫岩で地下から侵入することもできない……」
「……わかった。結の方は動きはあったかい?」
「いや、全然だ。ちょっと離れたカフェに行ったかと思えば今度は、カラオケに移動した。そこに四人組の男女が来たが、おそらくコイツらが峻たちだろう? 手元のデータと顔が同じだ」
「そうだ! 彼らの動きに注意してくれ! 修練のことを脱出させたのなら、絶対に合流するはずだから!」

 それができなければ、またすぐに【神代】に捕まるだけだ。だからことを起こせば峻たちはどこかで必ず、修練と接触する。

「了解した。目を離さないようにしておく!」
「僕らは病棟の方に向かう! 病棟での行動を何とか止める!」

 時間は刻一刻と過ぎていく。秒針が動くたびに、緑祁の心臓の鼓動が強くなる。緊張しているのだ。それは恐怖が原因かもしれない。これから起こるかもしれない事件に対し、無意識のうちに怖気づいている。

(みんながいるんだ、絶対に上手くいく! 失敗なんて、するものか!)
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