第10話 終止符の時 その2

文字数 3,592文字

「………」

 また緑祁は無言になる。

(罠じゃない。そういう表情じゃないし、殺気も感じない。これは本気なんだ…!)

 偽者であっても罪の意識は感じるし、何が間違っていて正しいかの分別も付く。だから本気で、自分がこの世から去るべきだと言っているのだ。
 それを痛感すると、とても心が痛む。緑祁が恋したのは偽者。その偽者が、自らの命を絶ち切ってくれと懇願しているのだから。

「何も悩むことはないわ。寄霊なんて、いや全ての霊が、この世にいるべきじゃないのよ…。失われた命は、三途の川を越えて黄泉の国へ渡らないといけない。それが、自然の摂理であって神が定めた規則でもあるわ」
「………わかっているよ」

 だから早く、手を下すべき。緑祁が鬼火でも鉄砲水でも旋風でも起こせば、それは十分に偽香恵を殺めるだろう。この距離ならば逃げられないし外すこともない。
 しかし緑祁にはまだ、躊躇いがある。何かが背中を押してくれることを待っている。

「悪いことじゃないわ、ただの除霊よ? 今までも何度も私の前でやってみせたじゃないの。それを行うだけ。相手は人間みたいだけど、死ねば体は空気に溶けるわ。そして私がこの世から消えれば、本物の香恵も目覚める。全て、元通りに戻るのよ」

 次の言葉が、緑祁の背中を押した。

「私は、緑祁の幸せを願っているわ……」
「……!」

 以前にもこのフレーズを聞いた。それは本物の香恵が入院している病院で、理恵が言ったのだ。

「幸せを願ってください!」

 と。

 緑祁はそれを思い出し、下を向いた。

「似た者同士、なんだね僕たちは」

 彼は香恵の幸せのために偽香恵を倒すと決意した。そして偽香恵の方は、緑祁の幸せのために自分を倒せと言う。寄霊は性格も忠実に真似るため、これは香恵本人の言葉でもあるのだ。

「やるよ。でも、痛くはしない」
「いいえ、ちゃんと罰して。この期に及んでそんな優しさはいらないわ」

 指先に旋風を作ると、それを偽香恵の首筋に持って行く。それで喉を掻っ切れば、偽緑祁の時と同じように殺せる。偽香恵は前に緑祁から渡された命繋ぎの数珠を彼に返却し、

「迷うことは何もないわ。さあ、やって」
「う、うう……!」

 苦しみながらも指を動かす緑祁だったが、中々言うことを聞かず、思い通りに動かない。あと数センチのところで意に反し止まってしまうのだ。

「それで十分よ、緑祁…」

 その停止した腕を掴んで偽香恵は、自分の首に彼の指先を持って行った。
 スパッと、偽香恵の喉が切れた。傷は深く、血が噴き出した。同時に立っていられずその場に崩れる偽香恵。彼女が最後に顔を緑祁に向けた時、

「さようなら……。幸せに、緑祁……」

 と、言った気がした。
 地面に落ちた偽香恵の体は塵と化し、風があの世へ運んで行ってしまった。

「う、うう、うあああああ……」

 泣き崩れる緑祁。すぐに緋寒、紅華、朱雀が駆け寄るが、顔を上げられないほど号泣している。

「どうするのじゃ、緋寒?」
「今は泣かせておけ。もう少し落ち着くまで待つ」

 気の利いた配慮だ。
 緑祁はその後数十分は泣いていた。しかし涙を袖で拭き取り、立ち上がった。

「戻らないと……。本物の、香恵のところに…」
「今日はまた、楠館に泊まれ。明日、横浜に戻るぞ」

 帰りのヘリコプターの中で、緑祁はボンヤリと下を見ていた。視線の先には、暗い海の上に佇む軍艦島が。島全体が廃墟のはずだが、この時彼の目には確かに、この島の光……全盛期の姿が映っていた。

「ここからが、本番なんだ……」

 そう。偽香恵を倒したことは、ただの通過点である。
 寄霊との因縁に決着がついたかどうかは、本物の香恵の目覚めを待たないといけないのだ。


 次の日、朝一番の便に乗って緑祁は羽田空港に戻った。出迎えは刹那がしてくれた。

「旅館での夜も飛行機の中でも、全然寝られなかったよ……」

 それに加え思いっ切り泣いたせいだろう、目元が薄っすらと赤くなっている。

「試練を越えた汝の姿は、素晴らしい。その思いは必ずや、香恵に届くであろう――」

 病院の前で絵美と合流し、理恵の到着を待つ。

「どう…だったんですか?」

 理恵に聞かれて緑祁は、昨日の夜の出来事を報告した。

「……やった、よ…」

 しかし暗い返事だ。

「緋寒から聞いてたけど、やればできるじゃないの!」

 式神の札を預かっている理由はもうないので、それらを絵美は緑祁に返却。すぐに懐に仕舞った。

「では、行きましょう」

 四人は病院に入り、香恵の病室を目指す。

(目が覚めているといいんだけど、どうなるんだろう?)

 長い間眠っていたので、まだ覚醒できていない可能性もある。
 ノックして病室に入ると、やはり香恵はまだ起きてなかった。

「そんな……」

 理恵が落胆している中、緑祁は病室の中を進んで香恵の手を握った。すると、

「あっ!」

 表情がわずかだが、動いたのだ。

「と、いうことは…!」

 これから目が覚める。刹那と絵美は直感した。他にも腕を掴んでみると反応があった。これは昨日まではあり得なかったことである。
 当然、四人は香恵が目を覚ますまで病室にいることを選ぶ。

「お昼、先に食べてくるわね」

 正午になり、刹那と絵美が院内食堂に行った。その際、

「緑祁さん、姉さんは起きてくれますよね…?」

 理恵に聞かれたので、

「うん。必ず戻って来てくれるよ」

 今度は元気に返事をした。
 その時である。

「ん……」

 香恵の目が、ゆっくりと開いたのだ。

「姉さん?」

 真っ先に理恵が飛び上がって香恵の側に移った。

「り、理恵……? 私、どうしたの……?」

 緑祁も香恵の側に移動した。

「香恵……。良かった、目が覚めて」

 本物の香恵とは初めて言葉を交わすわけだが、緑祁はそう言った。

「そ、そちらは……」

 当然、知らない人である。だがこの時の香恵の言葉のニュアンスは、赤の他人が病室にいることに違和感を抱いたような感覚ではない。まるで、誰かを待っていたかのような感じだ。

「と、とにかく! お医者さんに教えないと!」

 今までの入院の経緯を説明するのが難しい。何せ香恵は一年間も意識が戻らなかったのだから。理恵は医者を呼び、詳しい話を主治医に任せることにした。

「そう、ですか……」

 案外、すんなりと香恵は月日の流れを受け入れた。
 午後に健康診断やその他の検査の予定がすぐに組まれる。

「目が覚めたのね! よかったわ!」
「我らは喜びの言葉を探した。しかし意外と見つからないものである――」

 刹那と絵美も戻って来て、香恵と目を合わせる。

「そちらは一体……?」
「同業者よ」
「そう……。初めて見る顔だわ」
「………まあ、そうなるわね」

 絵美が香恵と話している間、緑祁と刹那は、

「今日はもう帰って、明日出直すことを提案したい――」
「そうだね。その方がいいよ」

 香恵の体や心の健康を考えると、この日に色々と説明するのは酷な話。だから緑祁と刹那、絵美は明日、お見舞いに来ると約束し、病室を出た。

「あ、待って……」

 香恵の呼び止める声は、残念ながら緑祁に届いていなかった。


 日を改めて病院に行く緑祁。昨日は疲労のせいか、それとも今までの重みが外れたためか、かなり早い時間帯に布団に入ると、朝まで一度も目が覚めなかった。そして刹那たちよりも先に移動を開始した。
 ノックをすると、香恵の、

「どうぞ」

 という声が返って来る。そして扉を開くと、理恵すらいない一番乗り。

「自己紹介が遅れたね。僕は永露緑祁って言うよ」
「話には聞いてるわ。私の偽者を倒してくれたのが緑祁君なんでしょう?」
「君、なんて、つけなくていいよ。同い年だから」
「あらそう? なら助かるわ」

 緑祁は何かしら話題を探そうとしたが、先に香恵の方から切り出される。

「ずっと、夢を見ていたの」
「夢?」

 眠っていた時の話だ。

「暗くて、何もない空間に一人でいるのよ。怖くて何度も叫んでも、誰も助けに来てくれない。でも、緑色の光がいつも、私のことを包み込んで守ってくれるの」

 それは、緑祁のことを暗示していたのであろう。

「緑祁のことよ。昨日そちらのことを一目見た時、確信したわ」

 その時感じたことは、香恵もよく覚えている。枯れ果てた砂漠に、一つの緑が芽生えるかのような衝撃だった。

「できれば、私の側にいてくれないかしら?」

 その問いかけに、首を横に振る理由はない。緑祁は、

「もちろんだよ。僕はいつでも、香恵の幸せを願っているから!」

 しかし暦の上では、ゴールデンウィークはもう終わる。大学の講義も始まるので、緑祁は青森に帰らないといけないのだ。流石に欠席させてまで彼のことを側に置いておきたいとは香恵も思わないので、

「まずリハビリして、鈍った体を治さないと。そうしたら、緑祁に会いに、青森に行ってもいいかしら?」
「是非、来てよ! 僕はいつでも、香恵のことを待っているよ!」

 その嬉しい返事に香恵も、

「ありがとう!」

 と、返した。
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