第9話 心の闇を貫け その3

文字数 3,580文字

「返事をしろ、緑祁!」

 目を開いて緑祁の肩を揺さぶる彭侯。しかし、首筋に噛みついているダニには気づけない。この状況で定規で測定できないくらい小さいダニを発見するのは不可能だし、思いつくのも無理だ。
 ダニは毒蟲で生み出されたので、峰子の毒厄を中継してくれている。彼女の毒厄は、体ではなく心を蝕む。

(油断しましたね! 馬鹿ですね、本当に! 幻覚汚濁ほどの効力はありませんが、こうなってしまえば後は言葉で誘導です! 姐さん、ウチ、勝ちましたよ!)

 今近づくと、彭侯に攻撃されるかもしれないので、離れた状態で言葉を投げかける。

「緑祁、キミはもう……後戻りはできないんですよ。【神代】はキミのことを許さないでしょうし、キミだって香恵と一緒にいたいでしょう? そうなれば、やるべきことは一つだけです。香恵を殺害しましょう。それで【神代】に逆らいましょう」
「緑祁、耳を貸すな! 峰子の言葉を聞くな! おい、緑祁!」

 一生懸命彭侯は叫ぶが、もう意味がない。峰子の応声虫のせいで、彼の言葉は緑祁に届いていないのだ。

「キミ、香恵を他の人に取られたいんですか? そんなの、望んでないですよね?」

 失敗は反省し、成功に活かす。岩苔大社で行った時は、香恵の名前を出したがために上手くいかなかった。だがもう一度緑祁を暗い道に引きずり込むには、香恵のことを言うのが一番効く。

「自分に正直になりましょうよ、緑祁。この世で誰よりも香恵のことを想っているのは誰ですか? キミでしょう? キミ以外いません。でも、香恵はキミのこと、どう思っているのでしょうね? 想ってないのかもしれませんね。それって悲しいことです。二人は結ばれるべきなのです。でもその邪魔を、【神代】がしています」

 鋭く深く、緑祁の心に突き刺さる言葉。毒蟲が与えている毒厄もあって、かなり心を黒ずんだ色に染めていく。

「緑祁! 返事をしろ、緑祁!」
「無駄ですよ。キミ……彭侯とか言いましたっけ? キミの言葉は、さっきから緑祁には届いてないんですから。叫ぶだけ、無意味。一つ助言するなら、緑祁から離れた方がいいのではないでしょうか? 襲われた時、勝てますかね? 命が惜しけりゃ逃げたらどうです?」
「コイツ……! 許さねえ! オレだけでも……」

 まだ飛蚊が効いているせいで、目に映る全てがズレて動く。

「さあ、緑祁! 一緒に【神代】を倒しましょう! キミがすべき使命は、それです! そのために生まれてきたんです!」

 あと少しで緑祁の心を落とせる。そう確信し峰子は手を差し伸べ、

「さあ! ウチの手を取って! 行きましょう!」

 トドメに幻覚汚濁を使おうとした。

「僕は………」

 緑祁が呟いた。かなり弱々しい音調だ。心が毒されているが故に、声も弱くなってしまう。
 目の前が真っ暗になった。これは峰子の蜃気楼ではない。緑祁の中にある心の闇が、思考を支配しようとしているのだ。
 その根源は、おそらく独占欲。香恵を自分だけの存在にしたいという願望。ここで頷けば、その願いが叶えられ永遠に自分のものに。
 しかし、

「そっちに行くな、緑祁!」

 誰かの声がする。これは辻神の声だ。

「アンタの居場所は、こっちだぜ!」
「悪いことは、しちゃ駄目だヨ!」

 今度は彭侯と山姫。

「行くなって言ってんだろーが!」
「戻って来い! 今なら間に合う!」

 病射と朔那が緑祁のことを引っ張りながら言った。

(どういうこと?)

 辻神も山姫も、病射も朔那もこの場にはいない。でもどうしてか、自分を呼び止める声が聞こえるのだ。

「でも、あっちに香恵が……」

 足元には、血のように赤く小さい川が流れている。これを越えれば、香恵に会える気がする。だから飛び越えたい。でも、

「行ってはならぬ!」

 皇の四つ子まで、緑祁のことを止めるのだ。

「さあ、こっちだぜ緑祁」
「戻ろうよ、【神代】に」

 骸と雛臥もいる。

「危ないわ! 行っては駄目よ!」
「これ以上、闇を求めてはいけない――」

 絵美と刹那も緑祁の腕を掴んで離さない。

「どうして、止めるの? 僕は香恵と一緒にいては、駄目なのかい?」

 そう聞いてみると、

「その一線の向こうに、香恵さんはいませんわ」
「少年よ、正気を抱け。愛は正義の上にある」
「行かせないよ、絶対に!」

 育未と由李と絢萌も、呼び止める。

「でも!」

 強引に川の向こう岸に行こうとした時だ、突然、川の中から二人の女性が現れた。

「花織? 久実子?」

 鹿子花織と並星久実子が、体を張って行く手を阻む。

「この川を越えたら、わたくしたちは二度と緑祁に会えません……」
「振り向け緑祁! あんたの仲間は、向こう岸には誰もいないんだ」

 言われた通りに振り向く。すると大勢の人がいた。よく会う【神代】の幹部、一度しか会ったことがないような人、霊能力者ではない一般人の友人など、様々だ。
 その中には、香恵もいた。

「緑祁、渡らないで、その川を」

 か弱い声で、緑祁にそう言う。

「か、香恵……。でも、僕は……」
「お願いよ。私はこの川の向こうで緑祁と一緒にいたくないわ。戻って来て!」

 香恵の言葉が、決定打になった。緑祁は完全に血の川に背を向け、

「わかったよ。僕は、こっち側にいる! あの川は越えない」

 仲間たちの方に、一歩、また一歩と動き出した。

「心配させるぜ、全くよ。でもこれで安心だな」
「後ろには行かせないから」

 後ろから、紫電と雪女の声がするし、下がれない。だから緑祁は、このまま前に進む……川から離れることを決めた。

「ゆ、夢……?」

 今まで見ていた風景が急に消える。隣には、何かを叫んでいる彭侯がいる。手をこちらに向けている峰子が目の前にいる。

(そうか、僕は……!)

 ここで緑祁は、自分の身に何が起きていたのかを察した。
 自分の心の闇と戦っていたのだ。一人だけでは暗黒に染まってしまいそうだった。でも、仲間が呼び止めてくれた。血の川を渡らずに済んだ。
 緑祁の心は一度、闇に染まってしまった。しかし今は違う。支えてくれる仲間がいる。助けてくれる仲間がいる。そんな仲間のことを考えると、緑祁の意志は自然と心の闇を貫いていた。

「彭侯! 汚染濁流を僕に撃て!」
「はっ?」

 驚いて声を出した峰子。差し出した手を拒否されたことよりも、心を負に染め上げれていないことの方が衝撃だった。

(え、どういうことです? 何で、毒蟲が効いてないんですか……? 姐さん、ウチ、勝ったはずですよね? だってあの状況、間違いなく、誘導できていたでしょ!)

 しかも首筋に噛みついているはずのダニは、勝手に剥がれ落ちている。
 彭侯は緑祁のことを信じている。だから躊躇わず、聞き返すこともせず、

「たっぷりだぜ! 汚染濁流だ!」

 霊障合体を緑祁に向けて放った。毒厄を帯びた鉄砲水だ。

「霊障合体・水蒸気爆発!」

 自分に迫ってくる汚染濁流に対し、鬼火と鉄砲水を合わせる。その爆風が、汚染濁流を弾く。まるで鏡が光を反射するかのように、狙った方向に汚染された水が飛び散る。

「うえっ!」

 峰子の反射神経は、素晴らしかった。混乱する頭を整理し、目の前で起きている状況を飲み込み、それに対する最適な解答を繰り出す。応声虫でチョウやガを生み出して、また鱗粉の壁を作ったのだ。しかし今度は水蒸気爆発の爆風、かなりの勢いがある。ほんの一滴が鱗粉の壁を貫いて、峰子の頬にぶつかった。

「う! 頭が痛いです……! な、何で?」

 それだけではない。関節痛、発熱、悪寒、吐き気、、腹痛、倦怠感に一気に襲われる。

「オレの毒厄は、インフルエンザ級だぜ? そんな状態で戦える? 立てる? 無理じゃねえのか?」
「い、インフルエンザ……? そんな馬鹿な……?」

 不思議なことではない。毒厄を使う霊能力者の中には、その毒で相手を即死させることができる人だっているのだ。寧ろインフルエンザと同様の症状で止まる彭侯の毒厄は、さじ加減すれば命の危険はないので比較的優しい方である。
 一歩踏み出そうとすると、足が崩れる。地面に落ち、立てない。

「………」

 峰子、陥落。軍配は緑祁と彭侯に上がった。

「やった! 勝ったぞ、彭侯!」

 峰子に勝利。それは心の闇に打ち勝ったことも意味している。

「焦るなよ、緑祁! 今、辻神たちを呼ぶ。触っても大丈夫なように、朔那の木綿で縛り上げよう」

 スマートフォンを取り出し電話する。数分もすれば駆け付けてくれて朔那が、

「捕まえたぞ!」

 豆鉄砲から植物を撃ち出し、成長させて根と茎で峰子を縛った。これは薬束を併せ持つ霊障合体・薬草(やくそう)でもあるので、峰子の毒厄は通じないし彭侯の汚染濁流で枯れることもない。

「まず、一人! 峰子を確保した! いいぞ、好調だ! このままの勢いで、雉美も捕まえるんだ!」

 暗い雰囲気は、もう漂っていない。峰子の身柄は皇の四つ子が、【神代】の幹部のところに運ぶ。
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