第1話 廃墟の島で その1
文字数 3,765文字
とある病院の一室に、その少女は入院している。
「姉さん……。今日はいい天気だよ」
彼女の妹はこの日も欠かさず見舞いに来た。いつこん睡状態から目覚めるかわからないからだ。そしてずっとベッドの上で横になっている姉の姿を見て、また顔が下を向いてしまう。
「明日こそは……」
しかし希望は捨てられない。現にその妹はこうして一年間は姉の様子を確認しているのだから。そしていつ眠りから覚めてもいいように備えているのだ。
「今日はもう帰るよ、姉さん。明日また来るからね」
姉の手を両手で握りしめ、挨拶を済ませると妹は病室を出た。
この晩、永露緑祁はバイト先のイタリアンレストランでピアノを弾いていた。ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』である。彼が最も得意とする曲で、特に今演奏中の第四楽章はもう楽譜を見なくても弾けるほど練習した。
「落ち着いた音調、静寂、激しいテンポ……。それら全てがバランス良くて、終始聴く人を飽きさせない曲だよ。どれを取ってもこれに勝るのは知らないかな…?」
大学で同期の学生に、一番好きな楽曲を聞かれた際に彼が言ったセリフである。実際に今夜は顔を知っている友人が聴きに来ている。彼らだけではない。藤松香恵もいるし、緑祁が持つ二体の式神…[ライトニング]と[ダークネス]も召喚され、耳を立てているのだ。
演奏が終わると、店内は拍手に包まれる。
「『アンデスの春』ってわかる? 小学生の時に聴いたんだけど、それも演奏してくれよ!」
普段はリクエストは受け付けていないが、学内でお願いしてきた友人が今日食べに来てくれているため、楽譜を開いて演奏を開始する。さっきまでとは違った陽気な音色が響き渡る。
演奏が終わると今晩の緑祁の出番は終了。レストランの裏方に移動した。
閉店時間になったが、香恵は席に着いたまま緑祁のことを待った。
「緑祁、今日もお疲れ様」
労いの言葉をかけて彼にコップ一杯の水を差し出す。緑祁はそれを一気に飲み干した。
「知っている人が聴いていると、いつもより緊張するよ……」
「でもミスらないでしょう?」
そうとは限らないので、緑祁は鍵盤を叩く時、常に指先に魂を込めている。一つで間違った音を出すと、全てが台無しになるという覚悟で演奏しているのだ。
「香恵は楽器の演奏はしないの?」
「苦手ね。リコーダーですら苦戦したわ」
「もしかして、音痴?」
「いいえそうとは限らないわよ?」
そんな会話をしながら、緑祁はスケジュール帳を開いた。
「明後日からゴールデンウィークだね。香恵は何か、予定とかあるの?」
「別にないわね………」
「…家に戻ったりしなくて大丈夫?」
それは前から心配していることだった。
思えば、香恵は緑祁の下宿先に泊まっている。しかも事前に彼の情報について、調べれる分は把握済みだ。でもその逆…つまり緑祁は香恵のことをあまり深く知らない。
「そもそもどこに住んでいるの?」
「緑祁の家よ」
「それは、まあ、そうだけど……。僕の家に来る前は別の場所にいたんでしょう? それはどこなんだい?」
「………知りたい?」
けれども香恵には教えるつもりがないようで、いつもはぐらかされるのだ。
「細かいことは気にしないで。それより、面白い声がかかっているわよ」
「僕に?」
それは【神代】からの仕事の案内だ。
「天王寺修練を捕まえたことで、評価が上がったのよ。それがやっとデータベースに反映されて、それでやってみないかっていう依頼があってね…」
「本当に?」
緑祁の食いつきは良かった。普段は普通の人として生活しているが、表立って表彰されることはしていない。勉強の成績も単位を落とすほど悪くはないが、かといって首位が狙えるほど良いわけでもない。おまけに霊能力者としての評価は、そういう活動を怠っていたために全然ない。
そんな彼のことを、【神代】が評価したのだ。嬉しくならない理由がない。
「どんな内容なの?」
「軍艦島 ってわかるかしら?」
「うん…?」
クエスチョンマークが頭の上に浮かんだことを確認した香恵は、一から緑祁に解説を入れる。
「長崎にある島よ。今は島全体が廃墟になってしまっているけれど、昔は石炭のおかげで日本一の人口密度になったほど賑わっていた場所。見学のためのツアーがあって上陸することができるわ。そこに用事があるらしいの」
「なるほどね」
その島の歴史にはあまり興味が湧かなかったが、どうして【神代】がそんな島を扱う仕事を抱えているのかは大体予想がついた。
「かつて人で賑わっていた場所には、その温もりを求めて霊が出る。それは無害かもしれないし、危険かもしれない。【神代】はそこに霊能力者を派遣して、祓っておきたいっていう魂胆でしょう?」
「その通りよ」
世界遺産を狙う軍艦島からすれば、悪い霊が出て悪評が出回ることは絶対に避けたいこと。
「でも、そういう場所って観光客の嬉しい悲鳴が成仏に一役買っているって聞くよ? わざわざ霊能力者が出ないといけないほど、危ないの?」
「私もそこまでは知らないわ。でも、長崎県からの依頼でもあるの。これをこなせば緑祁の評価はうなぎのぼり間違いなしだわ。どう?」
そこまで言われれば、答えは一つしかない。
「行くよ」
今までは周りの意見に流されていたが、ここで緑祁は自分の意思をハッキリと伝えた。思えば修練を捕えるのも、海神寺に行ったのも彼自身が決めたことではなかった。
「今まで霊能力者として生きてこなかった分、今からでも挽回したいんだ。それに僕自身、自分の可能性をもっと知りたい」
霊能力者としての生き方をしたい。そういう願望が言葉に表れた。
「なら、今年のゴールデンウィークはそれでいい?」
「もちろんさ。故郷に戻るような予定もないからね……」
今年のゴールデンウィークは四月二十九日から。その日の朝早速緑祁と香恵は飛行機のエコノミークラスで長崎に移動。市内の楠 館 という旅館が、今回の依頼に置ける拠点となる。
「夕食を食べ終えたら移動するわよ」
「そんなに遅くに?」
本日の予定を聞いた緑祁が聞いた。
「軍艦島への上陸は、日中だけじゃないのかい?」
「一般客に混じって仕事ができると思う?」
どうやら、人気のない夜に実行予定であるらしい。
「とりあえず今はこの懐石料理を食べましょう」
豪華な夕食を二人の部屋に、同い年くらいの女性が運んでくれる。
「これは本日採れたばかりの………」
実家を継ぐために修行中らしい。そして真面目な態度で提供した品物一品一品を解説してくれるが、
(僕はこういう料理苦手なんだよね……)
そう緑祁は思っていたために罪悪感に悩まされた。
食べ終えていざ移動を開始しようとなった時、香恵が、
「ねえ緑祁……? 一人で行ってきてくれない?」
と言う。
「だ、大丈夫?」
彼女の顔色は悪い。飛行機酔いがこんな遅くになってから発現でもしたのか、それとも気候が合わないから頭痛でもするのか、とにかく一緒に行動できる状態ではなさそうだ。
「一応、今回の依頼は一緒にこなしてくれる仲間もいるから、完全に緑祁一人で、っていうわけじゃないわ…。そこは安心して……」
本当に具合が悪そうなので、緑祁は旅館の従業員を捕まえてすぐに布団を敷いてもらうよう頼み、
「じゃ、行ってくるよ」
任務に赴いた。
「気をつけて、ね…」
「香恵はもう寝て、良くなってよ?」
旅館から港までの移動は結構面倒だ。だから緑祁は近くのレンタカーで原付バイクを借り、それに乗って集合場所に進む。
「あ、来た来た!」
その場所には、二人の霊能力者がもういた。
「あれ、見たことある顔だね……」
ヘルメットを脱いだ緑祁。彼の顔を見るや否や、
「ああ、緑祁じゃないの! 久しぶりね! 元気そうでなによりだわ!」
「これも運命か。こうして我らと汝はまた、会うことができた。今晩は敵同士競い合うのではなく、共に霊に立ち向かう役目だ。それを全うするのに、彼の助けは百人力である――」
神威刹那と廿楽絵美は反応する。
「やっぱりそうだったか! 今回、そっちらがお仲間?」
「そうみたいね。ところで、香恵だっけ? どうしたの、いないみたいだけど?」
「体調を崩しちゃったから、僕だけだよ」
雑談はこのくらいにし、早速軍艦島を目指す。
「どうやって上陸するの? 誰か船を操縦できる人がいる?」
「いないわよ」
「は、はい?」
ここで緑祁はこのミッションが、県に対し極秘で行われることを知った。
刹那が指をさした先に、一隻のボートがある。
「この、小さき船で海を渡る。人は誰も助けてはくれぬが、風と波は味方をしてくれる――」
らしい。
「それはつまり……」
「許可はない。密航よ!」
まず緑祁が足を踏み入れ、沈まないことを確認すると刹那と絵美も乗った。
「操縦できる?船舶免許とか、僕は持ってないよ? 自動車の運転免許しか……」
「私たちもよ。でも、私たちには、これがあるじゃない!」
絵美は人差し指を立てた。その先端から、わずかな水が飛び出す。鉄砲水だ。それを船の後方に座って、海面に向けて放つ。鉄砲水というよりは激流 だ。その反動で船体が前進する。海の波すらも操れるのか、船は全然揺れない。さらに夜風は刹那が都合のいい風に変えているので、転覆する心配もない。
三人を乗せたボートはひっそりと、港を出た。
「姉さん……。今日はいい天気だよ」
彼女の妹はこの日も欠かさず見舞いに来た。いつこん睡状態から目覚めるかわからないからだ。そしてずっとベッドの上で横になっている姉の姿を見て、また顔が下を向いてしまう。
「明日こそは……」
しかし希望は捨てられない。現にその妹はこうして一年間は姉の様子を確認しているのだから。そしていつ眠りから覚めてもいいように備えているのだ。
「今日はもう帰るよ、姉さん。明日また来るからね」
姉の手を両手で握りしめ、挨拶を済ませると妹は病室を出た。
この晩、永露緑祁はバイト先のイタリアンレストランでピアノを弾いていた。ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』である。彼が最も得意とする曲で、特に今演奏中の第四楽章はもう楽譜を見なくても弾けるほど練習した。
「落ち着いた音調、静寂、激しいテンポ……。それら全てがバランス良くて、終始聴く人を飽きさせない曲だよ。どれを取ってもこれに勝るのは知らないかな…?」
大学で同期の学生に、一番好きな楽曲を聞かれた際に彼が言ったセリフである。実際に今夜は顔を知っている友人が聴きに来ている。彼らだけではない。藤松香恵もいるし、緑祁が持つ二体の式神…[ライトニング]と[ダークネス]も召喚され、耳を立てているのだ。
演奏が終わると、店内は拍手に包まれる。
「『アンデスの春』ってわかる? 小学生の時に聴いたんだけど、それも演奏してくれよ!」
普段はリクエストは受け付けていないが、学内でお願いしてきた友人が今日食べに来てくれているため、楽譜を開いて演奏を開始する。さっきまでとは違った陽気な音色が響き渡る。
演奏が終わると今晩の緑祁の出番は終了。レストランの裏方に移動した。
閉店時間になったが、香恵は席に着いたまま緑祁のことを待った。
「緑祁、今日もお疲れ様」
労いの言葉をかけて彼にコップ一杯の水を差し出す。緑祁はそれを一気に飲み干した。
「知っている人が聴いていると、いつもより緊張するよ……」
「でもミスらないでしょう?」
そうとは限らないので、緑祁は鍵盤を叩く時、常に指先に魂を込めている。一つで間違った音を出すと、全てが台無しになるという覚悟で演奏しているのだ。
「香恵は楽器の演奏はしないの?」
「苦手ね。リコーダーですら苦戦したわ」
「もしかして、音痴?」
「いいえそうとは限らないわよ?」
そんな会話をしながら、緑祁はスケジュール帳を開いた。
「明後日からゴールデンウィークだね。香恵は何か、予定とかあるの?」
「別にないわね………」
「…家に戻ったりしなくて大丈夫?」
それは前から心配していることだった。
思えば、香恵は緑祁の下宿先に泊まっている。しかも事前に彼の情報について、調べれる分は把握済みだ。でもその逆…つまり緑祁は香恵のことをあまり深く知らない。
「そもそもどこに住んでいるの?」
「緑祁の家よ」
「それは、まあ、そうだけど……。僕の家に来る前は別の場所にいたんでしょう? それはどこなんだい?」
「………知りたい?」
けれども香恵には教えるつもりがないようで、いつもはぐらかされるのだ。
「細かいことは気にしないで。それより、面白い声がかかっているわよ」
「僕に?」
それは【神代】からの仕事の案内だ。
「天王寺修練を捕まえたことで、評価が上がったのよ。それがやっとデータベースに反映されて、それでやってみないかっていう依頼があってね…」
「本当に?」
緑祁の食いつきは良かった。普段は普通の人として生活しているが、表立って表彰されることはしていない。勉強の成績も単位を落とすほど悪くはないが、かといって首位が狙えるほど良いわけでもない。おまけに霊能力者としての評価は、そういう活動を怠っていたために全然ない。
そんな彼のことを、【神代】が評価したのだ。嬉しくならない理由がない。
「どんな内容なの?」
「
「うん…?」
クエスチョンマークが頭の上に浮かんだことを確認した香恵は、一から緑祁に解説を入れる。
「長崎にある島よ。今は島全体が廃墟になってしまっているけれど、昔は石炭のおかげで日本一の人口密度になったほど賑わっていた場所。見学のためのツアーがあって上陸することができるわ。そこに用事があるらしいの」
「なるほどね」
その島の歴史にはあまり興味が湧かなかったが、どうして【神代】がそんな島を扱う仕事を抱えているのかは大体予想がついた。
「かつて人で賑わっていた場所には、その温もりを求めて霊が出る。それは無害かもしれないし、危険かもしれない。【神代】はそこに霊能力者を派遣して、祓っておきたいっていう魂胆でしょう?」
「その通りよ」
世界遺産を狙う軍艦島からすれば、悪い霊が出て悪評が出回ることは絶対に避けたいこと。
「でも、そういう場所って観光客の嬉しい悲鳴が成仏に一役買っているって聞くよ? わざわざ霊能力者が出ないといけないほど、危ないの?」
「私もそこまでは知らないわ。でも、長崎県からの依頼でもあるの。これをこなせば緑祁の評価はうなぎのぼり間違いなしだわ。どう?」
そこまで言われれば、答えは一つしかない。
「行くよ」
今までは周りの意見に流されていたが、ここで緑祁は自分の意思をハッキリと伝えた。思えば修練を捕えるのも、海神寺に行ったのも彼自身が決めたことではなかった。
「今まで霊能力者として生きてこなかった分、今からでも挽回したいんだ。それに僕自身、自分の可能性をもっと知りたい」
霊能力者としての生き方をしたい。そういう願望が言葉に表れた。
「なら、今年のゴールデンウィークはそれでいい?」
「もちろんさ。故郷に戻るような予定もないからね……」
今年のゴールデンウィークは四月二十九日から。その日の朝早速緑祁と香恵は飛行機のエコノミークラスで長崎に移動。市内の
「夕食を食べ終えたら移動するわよ」
「そんなに遅くに?」
本日の予定を聞いた緑祁が聞いた。
「軍艦島への上陸は、日中だけじゃないのかい?」
「一般客に混じって仕事ができると思う?」
どうやら、人気のない夜に実行予定であるらしい。
「とりあえず今はこの懐石料理を食べましょう」
豪華な夕食を二人の部屋に、同い年くらいの女性が運んでくれる。
「これは本日採れたばかりの………」
実家を継ぐために修行中らしい。そして真面目な態度で提供した品物一品一品を解説してくれるが、
(僕はこういう料理苦手なんだよね……)
そう緑祁は思っていたために罪悪感に悩まされた。
食べ終えていざ移動を開始しようとなった時、香恵が、
「ねえ緑祁……? 一人で行ってきてくれない?」
と言う。
「だ、大丈夫?」
彼女の顔色は悪い。飛行機酔いがこんな遅くになってから発現でもしたのか、それとも気候が合わないから頭痛でもするのか、とにかく一緒に行動できる状態ではなさそうだ。
「一応、今回の依頼は一緒にこなしてくれる仲間もいるから、完全に緑祁一人で、っていうわけじゃないわ…。そこは安心して……」
本当に具合が悪そうなので、緑祁は旅館の従業員を捕まえてすぐに布団を敷いてもらうよう頼み、
「じゃ、行ってくるよ」
任務に赴いた。
「気をつけて、ね…」
「香恵はもう寝て、良くなってよ?」
旅館から港までの移動は結構面倒だ。だから緑祁は近くのレンタカーで原付バイクを借り、それに乗って集合場所に進む。
「あ、来た来た!」
その場所には、二人の霊能力者がもういた。
「あれ、見たことある顔だね……」
ヘルメットを脱いだ緑祁。彼の顔を見るや否や、
「ああ、緑祁じゃないの! 久しぶりね! 元気そうでなによりだわ!」
「これも運命か。こうして我らと汝はまた、会うことができた。今晩は敵同士競い合うのではなく、共に霊に立ち向かう役目だ。それを全うするのに、彼の助けは百人力である――」
神威刹那と廿楽絵美は反応する。
「やっぱりそうだったか! 今回、そっちらがお仲間?」
「そうみたいね。ところで、香恵だっけ? どうしたの、いないみたいだけど?」
「体調を崩しちゃったから、僕だけだよ」
雑談はこのくらいにし、早速軍艦島を目指す。
「どうやって上陸するの? 誰か船を操縦できる人がいる?」
「いないわよ」
「は、はい?」
ここで緑祁はこのミッションが、県に対し極秘で行われることを知った。
刹那が指をさした先に、一隻のボートがある。
「この、小さき船で海を渡る。人は誰も助けてはくれぬが、風と波は味方をしてくれる――」
らしい。
「それはつまり……」
「許可はない。密航よ!」
まず緑祁が足を踏み入れ、沈まないことを確認すると刹那と絵美も乗った。
「操縦できる?船舶免許とか、僕は持ってないよ? 自動車の運転免許しか……」
「私たちもよ。でも、私たちには、これがあるじゃない!」
絵美は人差し指を立てた。その先端から、わずかな水が飛び出す。鉄砲水だ。それを船の後方に座って、海面に向けて放つ。鉄砲水というよりは
三人を乗せたボートはひっそりと、港を出た。