第7話 零氷の故郷 その3
文字数 4,241文字
その時だ。
「んひゃ?」
何かが彼の頬を掠めた。かなり冷たい感触が、肌を走ったのだ。ジオが振り向くと、地面に氷柱が刺さっているのが見えた。
「アイスニードル? でも、キミたちには無理でちよね……?」
手足どころか体全身を縛り上げているので、そんな余裕はないはずである。だいいち雪の霊障はこの戦いでは、見ていない。
(じゃあ誰のでち? これは……?)
周囲をキョロキョロしたが、誰もいない。
いや、一人いた。月明かりに照らされて、その人物は陸奥神社の屋根の上に立っていたのだ。
「誰でち!」
それに気づいたジオは叫んだ。
珊瑚と翡翠も何とか首を動かして、その方向を見てみる。
「あれは……!」
「稲屋、雪女?」
間違いない。日焼けを忘れたかのような白い肌に、服装も白を基調にしている。髪の毛すらも新雪のような白さ。そしてその色のなさが、美しさを強調している。
「ユキメ? どこかで聞いたでちね……。って、あ!」
ジオはハッとなった。ギルとゼブを倒し拘束したという霊能力者がそうなのだ。
「でも、どうしてここに?」
「君は呉にいるはずじゃ?」
彩羽姉妹からはそんな疑問が投げつけられる。だからなのか、雪女は、
「私にとってこの八戸は、特別な場所なんだ……」
その胸中を吐き出した。
雪女は自分が生まれた組織である『月見の会』を好きになれなかった。むしろ霊怪戦争中に任務を悪用して抜け出したぐらいだ。だから、出生地にこだわりもなかった。
巡礼者として各地を回っている時、いつも思うことがあった。神社や寺院、教会の近くには大抵の場合、墓地がある。
(私は死んだら、どこに埋葬されるんだろう…?)
故郷と呼べる場所を自ら捨ててしまったのだから、かつての友人たちと同じ地に葬られるわけがない。それは別にいい。でも問題なのは、墓参りに来る人を見た時に感じたことである。
自分は、『月見の会』として死ななかった。でも『月見の会』にはちゃんと跡地に慰霊碑が用意され、訪れる人もいる。彼らの故郷はその集落なのだから、そこを誰かが見舞えば供養になる。現に雪女も何度かそこに足を運び、兄の霊を弔ったのだ。
でも自分は? 帰る場所がないから巡礼者になった雪女には、死んだ後に向かうべき場所がない。場所がなければ墓参りもされない。墓参りもされなければいつか、みんなの記憶からも消える。肉体的な死と記憶的な死。二度目の死が訪れるのだ。
そんなことを呆然と考えながら八戸にやって来た時、紫電と出会った。当初はお互いの利害の一致のために行動を一緒にした。それが終わったら、また自分は巡礼者に戻るのだろうと考えていた。
「ここで働けばいいじゃねえか? 誰も文句は言わねえと思うぜ?」
それを、紫電が止めたのだ。
「でも私、この屋敷の人からすれば身元不明の不審者だよ? そんな人がいること自体、きみのご両親が許してくれないと思うけど……」
それは、当たり前だ。当時の雪女は紫電の友人ですらない……言い換えれば偶然すれ違っただけの赤の他人。そんな人が、小岩井家に転がり込む? 許可されるわけがない。
しかし、
「軽く面接しよう。でもほぼ採用で決まりだな」
紫電の父親は拒否反応を示さなかった。それどころか豪邸の誰もが、自分はここに残るべきだと言ったのだ。
「本当に、いいの?」
「住み込みで働くようなものだ。ちょうど家政婦を増やそうと思ってたところ! 家事ぐらいできるだろう? いいやできなくても仕込むぞ」
この時雪女はその誘いを断るかどうか、悩んだ。
(ここに残れば、生活にはきっと困らない。でもそういう理由で、受け入れていいんだろうか? 兄さんだったら何て言うんだろう?)
決めかねていると紫電が彼女に言ったのだ。
「だってお前、帰る場所がないんだろう?」
それを言われて、雪女はハッとなる。
(そうだ。私には故郷がない。戻れる場所がない……)
紫電は、こうも言った。
「ならさ、ここをお前の新しい故郷にしちゃえばいいじゃん! 人間誰しも戻りたい場所がある。それがないのはかわいそうだぜ。雪女、この八戸をお前の新しい故郷として、ここで暮らそうぜ?」
彼の言葉に頷いたのは、小岩井家の全員。
見ず知らずの雪女を、紫電だけではなく執事や家政婦全員が、受け入れると言ってくれたのだ。
「わかったよ」
そう言った雪女の心の中には、ある思いが芽生えていた。新しい故郷への感情だ。自分は今日からここで、この地方の人として生きる。きっとそれが、『月見の会』を抜け出した自分が歩むべき運命。
雪女は紫電から差し伸べられた手を握った。
あの出来事を思い出しながら、雪女はネックレスのペンダントトップを握りしめた。
「こんな私を何の文句の一つも言わないで受け入れてくれた場所。それがこの八戸なんだ」
だからこの地への忠誠心を見せるべき。そしてそれは、今ジオを倒すことで証明する。
「いい覚悟でちね。でも覚悟だけで勝てるほど、勝負の世界は甘くないでちよ?」
改めて状況を確認する。今雪女は神社の屋根の上だ。ジオの方は彼女と同じ目線の高さまで上昇気流で登って来た。空を覆い尽くすかのように応声虫の虫が大量に飛んでいる。そして地面は木綿の草木が茂っている。雪女にとっては悪すぎる条件。
「空も陸も、駄目なんでちよ~。それなのにボクチンに勝つつもりでちか? それはちょっと傲慢でち!」
「全然そうは思わないわ」
勝利を選ぶことは贅沢な選択ではない。雪女は雪の氷柱を繰り出して、それをジオに向かって投げる。
「無駄でち!」
しかし飛んできたカブトムシと衝突すると、両方とも崩れた。
「なら……」
今度の氷柱は、糸鋸状にした。フリスビーを投げる感覚でそれを解き放つ。
「何度も同じことを! 意味がないでち……」
いいや、あった。氷柱が勝って平べったいクワガタを上下に切り裂いたのだ。
「しかし、でち!」
でも風が吹くとあやふやな方向に飛ばされてしまう。糸鋸状のために面積が通常の氷柱よりも大きく、風の影響を受けやすいからだ。
「雪女! あの、ジオ本人を直接叩いて! そうじゃないとらちが明かない!」
珊瑚が叫ぶ。雪女は頷いて返事をした。
「それは無理でちね。だってボクチンのゴッドブリーズは………」
ジオ以外は上に運ばない。そういう器用な風の流れすらも生み出すことができるのだ。
「ねえ、寒くない?」
「でち?」
何の突拍子もないことを言い出したためにジオは一瞬だけ混乱した。
「そりゃ、ベルリンと比べればちょっと寒いでちね。でもそれが何でち?」
「私、寒い日が大好きなんだ」
雪女の作戦。それは既に発動している。突如、ジオの頬に何かが当たった。
「いてて! 何でち、今の?」
小石でも巻き上げてしまったか? だがそういう感触ではなかった。自分に当たった時、その飛んできた何かも砕けた感じだったのだ。でも今はそんな小さな痛みを気にしている暇ではない。ジオは雪女の方を見上げた。
「……へ?」
その行動がおかしいことに気づいた。さっき上昇して、目線は彼女と同じ高さにしたはずだ。なのに今、首を斜め上に向けている。
「ち、違うでち! ボクチンの体が下がっているんじゃないでち……! 風の流れが止まりつつあるんでち…?」
これが雪女の狙いだ。相手の旋風を凍らせてしまおうという発想である。普通それをする、つまり空気を凍らせるにはマイナス百数十度まで温度を下げる必要があるが、この場合は別。最初に投げて地面に刺さった氷柱が冷気を吐き出し続けており、それが上昇気流に混じって、空気の流れを遅く鈍くしているのだ。
「お、おおおうううう…!」
ついに空気中で維持できなくなった。そのためにジオの体は地面に落ちる。
「で、でも! ボクチンの優勢には変わらないでち! そこの屋上から狙って……」
屋根の上を見た時、既に雪女の姿がなかった。彼女も地面に降りているのだ。
「ば、馬鹿でちか? この生い茂るダンシングリーブズが……」
「どの雑草のことを言ってるの?」
ない。さっきまでの緑が全て、枯れている。雪女は地に足を着ける前に氷柱を撃ち込み、植物が生育できないレベルの温度まで下げた。いくら木綿の力があっても、育った草木はこの異常な寒さで枯れる。
では応声虫はどうだろうか? こっちは木綿と違って実物の植物を使わないので温度は関係ない。
「くらうでち!」
手を何度も叩く。それによって生じる衝撃と虫。鼓膜をつんざく爆音と、鋭利な角や顎を掲げる昆虫。それに対し、雪女は氷柱と結晶を撃ち出して応戦する。
「耳、塞ぎたくなるね。でも音って、空気の振動だよね? それに私の氷柱が耐えきれるとは思えないけど……」
「そうでち!」
だから雪女が投げた氷柱は音に負けて砕ける。でもただ壊れるわけではない。バラバラになった氷の破片はジオの足元まで到達しており、彼はそれに気づいていない。ジオの目は、虫と氷柱で格闘する雪女に釘付けだ。
「今だ……」
雪女がジオの足元を睨んだ。すると氷の破片が勝手に動き出し、ジオの足に張り付いてそこを凍らせる。
「へ? え?」
今頃、何かをされていることに気づいたジオ。彼の足に付着した氷はそのまま成長して全身を包んだ。
「あああ! た、助けてくれでち!」
「終わりだね……」
ちょっと足でドンと叩けば。その振動が地面を通して伝わってジオまで届く。体を覆う氷は割れるが、この時ジオに凄まじい痛みを感触として与えた。
「でっちでち……」
激痛に耐え切れず、崩れ落ちるジオ。軍配は雪女に上がったのだ。
「か、勝った……」
彼女の新しい故郷、八戸。そこにある陸奥神社を、雪女は立派に守ってみせたのである。
ジオは意識を取り戻すと、足早に去っていった。雪女も彩羽姉妹も捕まえようとしなかったので、
「二度とここには来ないことね」
と言ってやった。
「ありがとう」
木綿から解放された彩羽姉妹が何度も頭を下げた。
「気にしないで。私は勝手にこっちに戻って来たんだ、寧ろそれを非難するべきだよ」
「それはできないね。雪女がいなかったら、私たち負けてたから」
「そうだね」
珊瑚も翡翠も、雪女の手を握った。
「最初君と会った時、富嶽様に意見する不届き者だと思った。でも違ったね。雪女は頼もしい霊能力者だわ!」
「私も、もう何も文句はないね!」
「二人とも、ありがとう。私、【神代】のためにも頑張れたかな?」
「うん、そうだね!」
わだかまりも溶けたところで、雪女は呉に戻ることにした。
「んひゃ?」
何かが彼の頬を掠めた。かなり冷たい感触が、肌を走ったのだ。ジオが振り向くと、地面に氷柱が刺さっているのが見えた。
「アイスニードル? でも、キミたちには無理でちよね……?」
手足どころか体全身を縛り上げているので、そんな余裕はないはずである。だいいち雪の霊障はこの戦いでは、見ていない。
(じゃあ誰のでち? これは……?)
周囲をキョロキョロしたが、誰もいない。
いや、一人いた。月明かりに照らされて、その人物は陸奥神社の屋根の上に立っていたのだ。
「誰でち!」
それに気づいたジオは叫んだ。
珊瑚と翡翠も何とか首を動かして、その方向を見てみる。
「あれは……!」
「稲屋、雪女?」
間違いない。日焼けを忘れたかのような白い肌に、服装も白を基調にしている。髪の毛すらも新雪のような白さ。そしてその色のなさが、美しさを強調している。
「ユキメ? どこかで聞いたでちね……。って、あ!」
ジオはハッとなった。ギルとゼブを倒し拘束したという霊能力者がそうなのだ。
「でも、どうしてここに?」
「君は呉にいるはずじゃ?」
彩羽姉妹からはそんな疑問が投げつけられる。だからなのか、雪女は、
「私にとってこの八戸は、特別な場所なんだ……」
その胸中を吐き出した。
雪女は自分が生まれた組織である『月見の会』を好きになれなかった。むしろ霊怪戦争中に任務を悪用して抜け出したぐらいだ。だから、出生地にこだわりもなかった。
巡礼者として各地を回っている時、いつも思うことがあった。神社や寺院、教会の近くには大抵の場合、墓地がある。
(私は死んだら、どこに埋葬されるんだろう…?)
故郷と呼べる場所を自ら捨ててしまったのだから、かつての友人たちと同じ地に葬られるわけがない。それは別にいい。でも問題なのは、墓参りに来る人を見た時に感じたことである。
自分は、『月見の会』として死ななかった。でも『月見の会』にはちゃんと跡地に慰霊碑が用意され、訪れる人もいる。彼らの故郷はその集落なのだから、そこを誰かが見舞えば供養になる。現に雪女も何度かそこに足を運び、兄の霊を弔ったのだ。
でも自分は? 帰る場所がないから巡礼者になった雪女には、死んだ後に向かうべき場所がない。場所がなければ墓参りもされない。墓参りもされなければいつか、みんなの記憶からも消える。肉体的な死と記憶的な死。二度目の死が訪れるのだ。
そんなことを呆然と考えながら八戸にやって来た時、紫電と出会った。当初はお互いの利害の一致のために行動を一緒にした。それが終わったら、また自分は巡礼者に戻るのだろうと考えていた。
「ここで働けばいいじゃねえか? 誰も文句は言わねえと思うぜ?」
それを、紫電が止めたのだ。
「でも私、この屋敷の人からすれば身元不明の不審者だよ? そんな人がいること自体、きみのご両親が許してくれないと思うけど……」
それは、当たり前だ。当時の雪女は紫電の友人ですらない……言い換えれば偶然すれ違っただけの赤の他人。そんな人が、小岩井家に転がり込む? 許可されるわけがない。
しかし、
「軽く面接しよう。でもほぼ採用で決まりだな」
紫電の父親は拒否反応を示さなかった。それどころか豪邸の誰もが、自分はここに残るべきだと言ったのだ。
「本当に、いいの?」
「住み込みで働くようなものだ。ちょうど家政婦を増やそうと思ってたところ! 家事ぐらいできるだろう? いいやできなくても仕込むぞ」
この時雪女はその誘いを断るかどうか、悩んだ。
(ここに残れば、生活にはきっと困らない。でもそういう理由で、受け入れていいんだろうか? 兄さんだったら何て言うんだろう?)
決めかねていると紫電が彼女に言ったのだ。
「だってお前、帰る場所がないんだろう?」
それを言われて、雪女はハッとなる。
(そうだ。私には故郷がない。戻れる場所がない……)
紫電は、こうも言った。
「ならさ、ここをお前の新しい故郷にしちゃえばいいじゃん! 人間誰しも戻りたい場所がある。それがないのはかわいそうだぜ。雪女、この八戸をお前の新しい故郷として、ここで暮らそうぜ?」
彼の言葉に頷いたのは、小岩井家の全員。
見ず知らずの雪女を、紫電だけではなく執事や家政婦全員が、受け入れると言ってくれたのだ。
「わかったよ」
そう言った雪女の心の中には、ある思いが芽生えていた。新しい故郷への感情だ。自分は今日からここで、この地方の人として生きる。きっとそれが、『月見の会』を抜け出した自分が歩むべき運命。
雪女は紫電から差し伸べられた手を握った。
あの出来事を思い出しながら、雪女はネックレスのペンダントトップを握りしめた。
「こんな私を何の文句の一つも言わないで受け入れてくれた場所。それがこの八戸なんだ」
だからこの地への忠誠心を見せるべき。そしてそれは、今ジオを倒すことで証明する。
「いい覚悟でちね。でも覚悟だけで勝てるほど、勝負の世界は甘くないでちよ?」
改めて状況を確認する。今雪女は神社の屋根の上だ。ジオの方は彼女と同じ目線の高さまで上昇気流で登って来た。空を覆い尽くすかのように応声虫の虫が大量に飛んでいる。そして地面は木綿の草木が茂っている。雪女にとっては悪すぎる条件。
「空も陸も、駄目なんでちよ~。それなのにボクチンに勝つつもりでちか? それはちょっと傲慢でち!」
「全然そうは思わないわ」
勝利を選ぶことは贅沢な選択ではない。雪女は雪の氷柱を繰り出して、それをジオに向かって投げる。
「無駄でち!」
しかし飛んできたカブトムシと衝突すると、両方とも崩れた。
「なら……」
今度の氷柱は、糸鋸状にした。フリスビーを投げる感覚でそれを解き放つ。
「何度も同じことを! 意味がないでち……」
いいや、あった。氷柱が勝って平べったいクワガタを上下に切り裂いたのだ。
「しかし、でち!」
でも風が吹くとあやふやな方向に飛ばされてしまう。糸鋸状のために面積が通常の氷柱よりも大きく、風の影響を受けやすいからだ。
「雪女! あの、ジオ本人を直接叩いて! そうじゃないとらちが明かない!」
珊瑚が叫ぶ。雪女は頷いて返事をした。
「それは無理でちね。だってボクチンのゴッドブリーズは………」
ジオ以外は上に運ばない。そういう器用な風の流れすらも生み出すことができるのだ。
「ねえ、寒くない?」
「でち?」
何の突拍子もないことを言い出したためにジオは一瞬だけ混乱した。
「そりゃ、ベルリンと比べればちょっと寒いでちね。でもそれが何でち?」
「私、寒い日が大好きなんだ」
雪女の作戦。それは既に発動している。突如、ジオの頬に何かが当たった。
「いてて! 何でち、今の?」
小石でも巻き上げてしまったか? だがそういう感触ではなかった。自分に当たった時、その飛んできた何かも砕けた感じだったのだ。でも今はそんな小さな痛みを気にしている暇ではない。ジオは雪女の方を見上げた。
「……へ?」
その行動がおかしいことに気づいた。さっき上昇して、目線は彼女と同じ高さにしたはずだ。なのに今、首を斜め上に向けている。
「ち、違うでち! ボクチンの体が下がっているんじゃないでち……! 風の流れが止まりつつあるんでち…?」
これが雪女の狙いだ。相手の旋風を凍らせてしまおうという発想である。普通それをする、つまり空気を凍らせるにはマイナス百数十度まで温度を下げる必要があるが、この場合は別。最初に投げて地面に刺さった氷柱が冷気を吐き出し続けており、それが上昇気流に混じって、空気の流れを遅く鈍くしているのだ。
「お、おおおうううう…!」
ついに空気中で維持できなくなった。そのためにジオの体は地面に落ちる。
「で、でも! ボクチンの優勢には変わらないでち! そこの屋上から狙って……」
屋根の上を見た時、既に雪女の姿がなかった。彼女も地面に降りているのだ。
「ば、馬鹿でちか? この生い茂るダンシングリーブズが……」
「どの雑草のことを言ってるの?」
ない。さっきまでの緑が全て、枯れている。雪女は地に足を着ける前に氷柱を撃ち込み、植物が生育できないレベルの温度まで下げた。いくら木綿の力があっても、育った草木はこの異常な寒さで枯れる。
では応声虫はどうだろうか? こっちは木綿と違って実物の植物を使わないので温度は関係ない。
「くらうでち!」
手を何度も叩く。それによって生じる衝撃と虫。鼓膜をつんざく爆音と、鋭利な角や顎を掲げる昆虫。それに対し、雪女は氷柱と結晶を撃ち出して応戦する。
「耳、塞ぎたくなるね。でも音って、空気の振動だよね? それに私の氷柱が耐えきれるとは思えないけど……」
「そうでち!」
だから雪女が投げた氷柱は音に負けて砕ける。でもただ壊れるわけではない。バラバラになった氷の破片はジオの足元まで到達しており、彼はそれに気づいていない。ジオの目は、虫と氷柱で格闘する雪女に釘付けだ。
「今だ……」
雪女がジオの足元を睨んだ。すると氷の破片が勝手に動き出し、ジオの足に張り付いてそこを凍らせる。
「へ? え?」
今頃、何かをされていることに気づいたジオ。彼の足に付着した氷はそのまま成長して全身を包んだ。
「あああ! た、助けてくれでち!」
「終わりだね……」
ちょっと足でドンと叩けば。その振動が地面を通して伝わってジオまで届く。体を覆う氷は割れるが、この時ジオに凄まじい痛みを感触として与えた。
「でっちでち……」
激痛に耐え切れず、崩れ落ちるジオ。軍配は雪女に上がったのだ。
「か、勝った……」
彼女の新しい故郷、八戸。そこにある陸奥神社を、雪女は立派に守ってみせたのである。
ジオは意識を取り戻すと、足早に去っていった。雪女も彩羽姉妹も捕まえようとしなかったので、
「二度とここには来ないことね」
と言ってやった。
「ありがとう」
木綿から解放された彩羽姉妹が何度も頭を下げた。
「気にしないで。私は勝手にこっちに戻って来たんだ、寧ろそれを非難するべきだよ」
「それはできないね。雪女がいなかったら、私たち負けてたから」
「そうだね」
珊瑚も翡翠も、雪女の手を握った。
「最初君と会った時、富嶽様に意見する不届き者だと思った。でも違ったね。雪女は頼もしい霊能力者だわ!」
「私も、もう何も文句はないね!」
「二人とも、ありがとう。私、【神代】のためにも頑張れたかな?」
「うん、そうだね!」
わだかまりも溶けたところで、雪女は呉に戻ることにした。