第1話 沈没する意気 その2

文字数 3,636文字

 しかし峰子は風呂場には行かず、事務室に入る。

「姐さん、大変だよ!」
「どうしたの、峰子?」

 この岩苔大社は珍しく、女性の神主がいる。この、垂真(たれま)雉美(きじみ)がそうだ。雉美がこの大社を全て仕切り、切り盛りもしているのだ。

「緑祁ってわかる?」
「何? 今日来る訪問者って、アイツのことだったのか!」
「もう、ビックリだよ! だってアイツ、豊雲さんを殺した……」

 雉美は、生前の淡島豊雲と交流があった。彼が持っている【神代】への不満も、何十回と聞いた。豊雲は四月に事を起こしたのだが、それが成功せずに緑祁と戦い、そして敗れ命を落とした。二人はそれを、緑祁が殺した、と認識している。

「まさか、まさかな……。あの緑祁が、向こうの方からこっちに来るとは……!」
「どうする? ここで潰しておく?」

 二人からすれば、緑祁は豊雲の仇。敵だ。だが雉美は、

「待て峰子、利用しよう。【神代】の犬である緑祁に、飼い主の手を噛ませるんだ」

 悪魔的な閃きをし、それを峰子に伝える。

「ひええええ! 流石は姐さん!」


 夜の作業が終わった。

「ふう……」

 香恵の方が先に客間に戻っており、緑祁の帰りを待っていた。

「除霊はどうだった?」
「一個一個は大したことはないよ。でも数が無駄に多くて……。ぬいぐるみ、はがき、仏壇、アルバム……。キリがない! これじゃあ翔気も音を上げるわけだ……」

 物に込められた念を取り祓うのは、難しいことではない。だが数が多過ぎてその分労力を食ってしまう。しかも霊能力者が除霊しに岩苔大社に来るという話が近隣の神社や寺院にも回っているせいか、そこから除霊の代行を求められているのだ。

「育未も、かなり疲れ気味だったよ……」
「そうなの」

 少し興味がなさそうな返事をする香恵。自分のことも心配して欲しかったのだが、待っていても彼から労いの言葉は出なかった。

「私も、疲れたわ」
「大丈夫? 何なら僕が明日、代わろうか?」
「……そこまでじゃないけど」

 緑祁は本当に疲れているらしく、目がもう眠たそうだ。だから、

「風呂に入って、もう寝るよ……」

 と言い、風呂場に向かう。香恵も女子風呂に向かった。

「あら……」

 湯船には、先客がいた。

「確か、育未……」

 育未が一人、湯に浸かっているのだ。

「こっちにおいでよ、香恵」

 一瞬迷った香恵だったが、近くに由李がいないことを確認するとかけ湯をしてから隣にお邪魔する。

「香恵さん、中々いい人と一緒ですのね。羨ましいですわ」
「緑祁のこと?」
「決まっているじゃありませんか! ワタクシが、恋人に欲しいくらいですわ!」
「だ、駄目! それは……」

 相手が冗談で言っているようには見えない。

「どうしてですの? アナタは由李とくっつけばいいのでして? それか、翔気さんと」
「何でよ、それ……。私は……!」
「まあまあ、熱くならないでくださる? 香恵さん、人には相性や運命がありますわ。目に見える関係が、墓場まで続くとは限りません。最善かも、しかりです。良さそうに見えても、実は間違いだったということだってあるのですわ」

 かなり精神に堪える言い方を、育未はする。まるで緑祁のことを香恵から奪うと宣言しているようなものだ。

「ちょっと、そんな言い方ないじゃない! 言葉を選べないの?」
「まあ落ち着いて落ち着いて! でもですわ、あの殿方のことを考えると、とても胸が熱くなりますわね! 心臓に火をつけられた気分ですわよ!」
「………」

 必死に我慢する香恵。自分に、

(大丈夫よ、緑祁はこんな人は選ばないはず!)

 と心の中で言い聞かせる。

「……のぼせてきちゃいましたわ。お先に失礼」

 育未が湯船から出て行く。一人残された香恵は、先の育未の言葉が胸に突き刺さったまま放置されている。

「こんなものね」

 脱衣所から出てきたのは、育未ではなかった。実はさっきまで風呂場にいたのは、蜃気楼で姿を、応声虫で声を誤魔化した峰子だったのだ。もちろん先ほどの棘のある言葉も全部ワザと、指示されたので香恵に投げた。そしてあえて返事を聞かずに先に風呂から出たのである。本物の育未と香恵が鉢合わせしないよう、育未たちには一番最後に風呂に入ってもらうよう言ってある。

「嫌な感じの精神攻撃だけどこれも作戦だし、ま、勘弁してね」

 爆弾を爆発させる導火線を、まずは用意する。それが今の峰子の役割だった。
 それに火をつけるのは、次の日から行う。

「今日は効率よく作業をこなしてもらうので……」

 そういう建前を繰り出し雉美が仕切る。意図的に香恵と緑祁が同じ作業をできないように組み分けた。もちろん香恵はその組み分けに不満な表情。自分は翔気と由李と一緒の作業だし、緑祁はまた育未と組む。

(こうやって、あの子の精神を少しずつ削っていけば……!)


 雉美と峰子の企みは、すぐに花を咲かせた。夕食の席も、食事の内容で分けると言って意図的に緑祁と香恵を遠ざけた。もちろん緑祁の隣は育未で、香恵の隣は翔気と由李。

「また隣になれて嬉しいよ、香恵! さあ一緒に夕食をいただこうか! この肉は牛タン、仙台牛の舌なのだよ」
「それ、もう飽きるほど食べたぜ」
「黙ってろ、小僧! お前に話しかけてないんだよ、私は! 嫌なら食わなければいいだろうが! 私は香恵と一緒に食べたいんだよ!」
「怒るなよ、そんなに……! このテーブル、全員が席についてるんだし、一緒に云々なんて意味ねぇし!」
「黙ってスマートフォンでもいじってろ。ああ汚らしい小僧が! うるさいうるさい!」

 由李が喧嘩腰で翔気と話しているのも、雰囲気を壊すのに一役買ってしまっている。

「さあ、香恵! 私のデザートを分けてあげよう! 代わりに納豆をもらうよ?」

 勝手に皿を動かされた香恵は、そんな単純なキッカケで不満が破裂した。元々精神的にまいってしまっていたこともあって、そのせいで、

「もういい加減にして!」

 堪忍袋の緒が、ブッツリと切れてしまったのである。
 香恵の怒鳴り声が食堂に響き、みんなが彼女のことを見た。一気に頭に血が上ってしまった香恵は、そのまま由李に向かって、

「私は、由李とは違うの! 何でそれを理解しないで勝手にそちらの都合で話を進めるのよ! ここにいる人たちと仲良くしようとしないのは、何で! 空気を一々悪くしないで!」

 ヒステリックに泣き叫ぶ香恵。なだめようと緑祁が立ち上がって彼女の側に駆け寄り、

「香恵、落ち着いて!」
「緑祁!」

 この時の緑祁の行為は、香恵のためだった。みんなで過ごすこの神社の空気を、彼女のせいで悪くしたくない。壊したくない。何よりも怒る香恵のことを見たくないのだ。だから、

「一旦、座ろう? 香恵!」

 怒りを鎮めようとする。
 しかし香恵からすれば、緑祁が自分ではなく他の人たちをかばっているように見えてしまっており、

「緑祁も酷いわ!」

 かえって火に油を注ぐ結果になってしまった。

「待って、香恵!」
「もういい! 緑祁なんて知らないわ、もう!」

 怒り心頭の香恵は食堂どころか岩苔大社から出て行ってしまう。

「香恵、そんな……」

 あっという間の出来事であり、緑祁はただ見ていることしかできなかった。
 心にポッカリと穴が開いた感覚を抱いた緑祁は、ガクリと床に腰を落とした。

「僕が、香恵のことをちゃんとわかってあげられなかったから……」

 目から涙まで零れる。

「気にするな、少年。私の方がより一層不愉快を与えてしまっていたようだ。反省すべきは、私だ……」

 落胆している彼の肩に、由李は手を置いて言う。

「私が香恵をキレさせてしまったんだ、すまない……。どう謝るべきか、わからない……」

 男嫌いの由李がここまで緑祁に謝罪する。

「いいえ、ワタクシの責任ですわ……。由李のことをちゃんと抑えていれば、こんなことには、なりませんでしたもの……」

 育未も責任を感じている様子。

「……俺、呼び戻してくるよ」
「待って翔気。今ここに呼んでもまた噴火するだけでしょう? 少し、香恵のこともしばらく一人にさせてあげようよ」
「それもそうか……」

 立ち上がった翔気に絢萌が言う。

「……食事はどうする?」
「食べられますか、この空気で……。少なくとも由李とワタクシは、米粒一つすら食べる権利がありませんわ……」

 せっかく差し出された夕食だが、今は食べれる空気じゃない。

「処分するのはもったいないので、各自客間に持って行きましょう」

 峰子がそう言い、この場を解散させた。みんなのためにそう言った峰子だったが、内心では、

(あの子、凄い爆発力! 緑祁の顔、かなり落ち込んでるじゃないの! 流石は姐さんの作戦! 決まったわ!)

 喜んでいた。心の中で笑っていた。香恵のことはどうでもよく、緑祁の動揺だけが肝心である。


「香恵……」

 一人客間に戻った緑祁。香恵はそこにいなかった。ちゃぶ台に夕食を置いたのだが、箸を持つ気にすらなれない。彼の感情は今、地獄の底に沈没した。
 何もする気力が起きず、緑祁はただ座布団の上で体育座りをしていた。
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