第190話 常楽寺(1)筑前守①

文字数 619文字

 京を発ったその日は、
安土の常楽寺に宿泊予定となっていた。
 信長一行が到着すると、
羽柴秀吉が寺に待ち受けていた。

 本人が地獄耳を自任している秀吉は、
信長が伝えてもいないのに任官を聞き知っていて、
筑前守(ちくぜんのかみ)を賜り、
末代までの名誉であると礼を述べ、
大袈裟でなく、天にも昇るかという喜び様だった。

 「働きぶりは、
(しし)に乗った摩利支天にも似て三面六臂(さんめんろっぴ)
他の誰にも勝るとも劣らず。
筑前守の名に恥じず、
この後も忠節を尽くし、
粉骨砕身を命じるものである」

 「ハハ―ッ!」

 三つの顏と六つの(ひじ)を持つ仏教の守護神 摩利支天は、
陰形の身で常に日天の前に疾走し、
焼けず、濡らせず、傷付かず、
自在の通力を有すとされて、
特に武士の間で信仰を集めた。
 摩利支天にも喩えられた秀吉は、
蜘蛛のように身を平らにし、床に額をすりつけた。

 長浜から足を運んだ秀吉は、
信長から夕餉を共にするよう勧められ、

 「されば、上様の好物も、
何卒御召し上がり下さい」

 と、たいそう大きく、色艶美しい干し柿を献じた。
 信長は干し柿に目が無かった。

 「これは珍奇!
斯様な季節に干し柿とは」

 「はっ!氷室(ひむろ)にて保存しておりました」

 「長浜に氷室を造営したか」

 「想像の(ほか)塩梅(あんばい)の良い出来栄えで、
これはもう、是非とも上様に御賞味いただきたく、
持参した次第であります!」

 先ほど柿を持って入った小姓の石田佐吉が、
秀吉の背後に目立たぬように座しつつも、
主の言葉を全身でその通りであると認めていた。


 




 

 

 

 

 
 
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