第80話 岩鏡の花(12)水精山③

文字数 715文字

 水晶山に着陣して以来、
信忠は頻繁に滝に来ていた。
 清潔を保つ為でもあるし、
年若い小姓のみならず、
馬廻り達も泳いだり、魚を獲ったり、
岩に寝そべって甲羅干しをしたり、
束の間、緊張を解き放ち、
良い気分転換に成った。

 中でも二滝が好きだった。
雌雄といっても良いような、
高さ、幅の異なる二本の瀑布は、
岐阜の城の人工的な滝とは違い、
日によって表情を変え、
毎日のように訪れても飽きなかった。

 三郎、勝丸はじめ、
七、八人ばかりで水に入り、
信忠は滝へ向かった。

 山を囲む原、登山口、山道各所、
警備されていて、
水晶山全体が織田軍の陣となっている為、
一帯に危険はなかった。

 飛沫(しぶき)の向こうに人影があり、
気にせず越えて滝裏へ回ると仙千代が居た。

 水音が大きく、闖入者である信忠に、
気付かずにいた仙千代はこちらに背を向けて、
手で水をすくっては首や腕を洗っていた。

 長島で負った背中の傷は、
ところどころ深い痕となっていた。

 褌姿の腰と尻の間には、
二つの笑窪(えくぼ)があって、
それを前に見たのはいつだっただろうと思い、
三年前、津島湊へ行った時、
浜で遊んで疲れた仙千代が信忠の横で寝ていた、
あの時だと思い出し、
勘九郎信重だった自分が、
いつしか出羽介(でわのすけ)勘九郎信忠となって、
一軍を率いていることに、
時の流れを感じながらも、
振り返った仙千代が、
信忠を眼前に見付けるまでの一瞬のごく自然な表情に、
強烈な愛しさがこみあげた。

 声にならない声をあげ、瞠目した仙千代が、
信忠への儀礼から、
身を退かせようとして足が滑った。
 転倒し掛かった仙千代の手首を、
信忠はつかんだ。
 咄嗟に、ただ出してしまった手だった。
しかし、つかんだ直後、
仙千代の肌だと認識した途端、
(いかづち)が走り、胸が締め付けられた。


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