第378話 悪鬼の涙

文字数 1,467文字

 思えば仙千代とて男子の多い家に生まれて養子に出された。
 彦七郎、彦八郎も男余りの家だった。
 今は仙千代の弟二人が養子先の医家や寺を出て万見家に入り、
兄を支え、盛り立てる。
 よくある話で何処にも転がっていた。
 しかし孤独を実りある道にと導くのは、
周囲の情愛、そして教養だった。
 梅之丞は蔑みの中、情け少なく、学を得ず育ち、
本能の為すがままここに至ったに違いなかった。

 「元服も済まぬ一小姓が何を言うかと思うであろう。
 が、斯様な話はどうだ。
 小弁は一座の誰をも悪くは言わなかった。
 ただの一度も。
 確かに小弁は恐れていた。怯えていた。
 打たれ、殴られ、恐怖していた。
 が、手を差し伸べた和尚にも、
トラ、フジという地元の子らにも、
無論、儂らにも親方を罵ることはしなかった。
 小弁にはおまえが親だったのだ。
 一座が唯一の居所であり、役に立とうとしたのだ。
命を削って。
 もしやそれはかつての小さな梅之丞でもあるのか」

 声をあげて泣くばかりの梅之丞だった。
 それは幼児(おさなご)のようだった。
 ふと見ると先ほど勘定を手伝っていた老人が木の陰で、
梅之丞の命乞いなのか、仙千代の説諭への感謝か、
縋る表情も必死に手を合わせていた。
 老座員は梅之丞の改心を
実は願っていたのかもしれなかった。

 小弁の枕元の粥……
あの老爺(ろうや)が運んだのか……

 仙千代はそのように受け止めた。

 彦七郎も正気を戻し、

 「その涙……幼い梅之丞の為の涙。
梅之丞も確かに童だったのだ。
 小さな梅之丞……歯を食い縛り、生き抜いた。
 よう耐えた……。
 その涙は尊い。
 悲しみを知る梅之丞なれば、
いっそう芸に磨きをかけ、皆を慰め、喜ばせるのだ。
 それが仏法にも岐阜の殿の思召(おぼしめ)しにも適い、
道を正しく照らすのだ」

 と言い、手拭いを差し出した。

 梅之丞は両の手で頂き、血と涙の顔をぐいぐい拭った。

 きっとあの老人は、
悪に染まる前の主の姿を知っているのだ、
故にああして拝むのだ……

 仙千代は大きく一息ついた。

 「今から言うことを肝に銘じ、けして破ってはならん。
 一に、畿内から西へ行ってはならん。
岐阜から東へも行ってはならん。
 織田の殿様の領国でのみ、興行致せ。
 二に、万一にも悪評を耳にしようものなら、
命はなく思え。
 生かされたその命、金輪際、無駄にしてはならん。
 三に、山口小弁はあの小弁を最後とし、
これからは第二、第三の梅之丞を育て、
芸の王道を歩むのだ。
 栄えある山口座の姿を儂は楽しみにする。
岐阜の殿も同じことを仰るだろう。
 その涙。
 今一度、生き直したい心があったのだと儂は見る。
 今日は新しい、いや、かつての山口梅之丞が蘇った日だ。
 間違いないな」

 梅之丞は涙が止まらなかった。

 寺を後にして仙千代、彦七郎は黙って歩いた。
 故郷の潮の香は温かな懐かしさで二人を包んだ。

 万見家に辿り着こうという頃、
彦七郎が、

 「梅之丞……治まるでしょうか」

 と問うた。

 「しかも織田家の支配地に留まれと。
むしろ尋常なれば(ところ)払い、厄介払いのはず」

 仙千代は、

 「あれで良いのだ。
梅之丞は愚かであった。
 だが馬鹿ではない。算術もたつ。
なればこそ一座を率い、生き延びてきた。
 悔い改め、真っ当に芸の道を進むが得だと算術するに違いない。
 あの涙は人に返った涙だ。
 心の底の奥の奥にしまい込んでいた辛い記憶が、
毒から薬に変じ、己の悪業を悔い、洗い流したのだ。
 悪鬼が人であった昔に帰った……
儂はそう思いたい」
 
 彦七郎は強く頷き、

 「あとは小弁が命を繋いでくれれば」

 と前を向き、
仙千代も顎を引き、首を大きく縦にした。

 

 
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