第116話 相国寺(8)将軍の子⑧

文字数 803文字

 僧正は重々しく告げた。

 「参議殿の御言葉、お預かり致します」

 参議とは信長を指していた。
 大臣、納言に次ぐ重役で、
参議以上が公卿の位とされる。

 「お預かりいただいたからとて、
返されても困ります」

 と言う仙千代に応対役の老僧正は柔和を装っていた。
 そこには急激に伸し上がった新興武家勢力に対する軽い蔑視を
意識的に滲ませている。

 仙千代は穏やかな口調を保った。

 「お返しになられたからと、
持ち帰る先がございませぬ故」

 一個の万見仙千代ではなく、
信長の名代としてここに居るのだという責めと矜持が、
物を言わせた。
 
 長年、大和の主として君臨した興福寺だが、
信長の伸長により(ばん)直政を守護に据えられても、
甘受せざるを得ない現況に於いて、
信長の側近に不遜な態度で押し通す程
名門古刹は馬鹿ではなかった。

 僧正は無言を返した。
沈黙は永年に渡って磨かれた洗練を感じさせ、
空疎ではなかった。

 静寂の室内に何処からか、
僧兵達の鍛錬の声が届けられてくる。
 僧形の武者達が護るのは聖なる仏法なのか、
または他の何であるのか。
 今もって写経を時にする仙千代は、
一瞬ではあるが、胸の塞がりを覚えた。
 
 興福寺はじめ、
大和の寺社はそれぞれが一つの王国だった。
(いにしえ)の時代より仏の名の下に優遇を享け、
知と富を積み重ねている。
 一方、王国同士の争いは絶え間なく、
延暦寺対本願寺のような大規模争乱まで、
度々引き起こしていた。
 
 仏教伝来以後、
大陸の貴重な情報や技術を独占し得る立場にあった寺社勢力は、
例えば墨、紙、果ては武器や酒を製造、備蓄し、
市場操作も厭わず高く売っては益を得て、
信長の楽市楽座や関所の撤廃という、
経済開放政策と対立する存在であるのみならず、
戦で捕えた人質を売買するなど仏徒としてあるまじき行為を
公然と行っていた。
 信長は天下統一の過程に於いて、
旧勢力たる寺社の懐に手を突っ込まざるを得ぬと考えており、
大和は象徴の地なのだった。


 

 
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