第13話 龍城(7)騒擾①

文字数 2,037文字

 作業を一通り終えると、
長頼を先に宴席に行かせ、
仙千代は机周りを片付けた。

 ふと睡魔に襲われて、
机に肘をついて眠ってしまった。

 何処なのか、
蛍がゆらゆらと漂っていた。

 池、小川、奇岩、
樹々が配置された広大な庭園の東屋は、
脇に植えられた梔子(くちなし)(つぼみ)がたわわで、
月明かりの下、
未だ青い若草色の花びらが清らかだった。

 潮騒が聴かれた。

 池の端に、
総髪の若君と前髪を分けた小姓が佇んでいた。

 「蛍の舞い……酩酊を覚えるようじゃ」

 「源氏も平氏もおりまする」

 「見分けがつくのか?」

 「源氏は川に住み、大きく、
平家は小さく、主に池におりまする。
ここには小川も池もありますゆえに」

 舞い踊る蛍が小姓の髪を撫でた。

 「動くな。
髪の先に蛍が……
光の髪飾りのよう……」

 命じられた小姓は動かず、
若君を見詰めた。

 「ずっとこのまま……
この一瞬が続けば良いのにな」

 「はい」

 「戦も何もなく……ただ、生きる」

 小姓が涙をひとすじ流した。
声を漏らすまいと唇が微かに震えている。

 「どうした?」

 と訊きつつも、
若君の頬も、すっと濡れた。

 一人が泣けば自分も泣く。
それだけが理由の涙だった。

 「今このひと時が十分幸せでございます」

 潮風の向きが変わり、小姓の髪から蛍が離れた。

 蛍の群れは揺らめいて、
水面を漂っている。
 
 「何にでも生まれ変われるとしたら、
仙千代はどうする」

 「考えたこともございませぬ」

 「そうか」

 「勘九郎様は?」

 「日によって違う」

 凛々しくも幼さを残した信忠と、
あどけない仙千代が、そこに居た。

 ああ、津島……
堀田邸のあの庭……
津島参りに連れていっていただいた、
あの夜だ……

 仙千代にとって、
生涯で最も美しい思い出だった。
 
 今、夢を夢だと知っていながら、
夢よ覚めるなと夢を見ている。
 
 この思い出は、
胸のいちばん奥の小箱にしまって、
いつもは在処(ありか)も存在も忘れている。
そんなものは無かったように振る舞って、
真っ直ぐ前だけを向いて駆けている。
 けれど、何かの拍子に、
夢が(うつつ)のように浮かび上がって、
仙千代を甘い蜜の海に誘い、
溺れさては苦しめた。

 勘九郎信重という名だった信忠が、

 「ここでは源平が争わず、共に舞っている」

 と、言い、

 「面白い仰り様をされるのですね」

 と、会話が続く。

 「そうか?」

 池を眺めると月が映っていた。
柔らかな潮風も遠い潮騒も心地よかった。

 「今宵の勘九郎様は、
何に生まれ変わられますか?」

 「蛍かな。
悠々と舞って楽しそうじゃ。
仙千代は」

 「夜露。
蛍が求めて、やって来まする」

 「上手いことを言う」

 「我ながら上出来」

 他愛ないやり取りが、
水と魚の交わりにも似て、
何の労もなく気持ちが寄り添った。

 若殿……勘九郎様……
何時(いつ)いらして下さるのです……
夜露を求めて来て下さるのではないのですか、
それとも他に潤いを見付けられたのですか、
勘九郎様は、他に……

 夢の中の二人は、
共に居られる喜びに涙を流した。
 口づけさえ経験がなかった仙千代は、
精一杯の空想をして、
信忠とのめくるめく一夜を願った。

 夢でもいい、夢でいい、
勘九郎様のすべてを知りたい、
他の誰のものでもない、
仙千代だけの勘九郎様を、
ただ一夜で良いから……

 甘美な陶酔に浸っていたはずが、
いつしか胸が、
切なさで圧し潰されそうになって、
仙千代は夢を夢だと認めながらも、
(うな)された。

 やがて、
誰か、よく知った声がした。

 「仙様……仙様」

 仙千代を仙様と呼ぶのは、
亡き玉越清三郎だった。
 信忠が寵愛した清三郎は、
町人の身分から悲願の侍となり、
程無くして長島の海で散った。

 清三郎は紫陽花を携えていた。
 侍の身分を与えてくれた信忠に、
清三郎は感謝の印だと言って、
紫陽花が咲く井戸端で、
鎧櫃(よろいびつ)を作っていた。

 (せい)、久し振りだな……
どうした、何故そこに居る……
ああ、紫陽花の季節だ……
花を見せに来たのか?……

 清三郎は、

 「仙様、お起きになられませ」

 と首を横に振る。

 「清……清……」

 仙千代は清三郎を呼ぶ自身の声で、
目が覚めた。

 夢の清三郎は、
生きていた時のまま、
精悍さの中に透き通った美しさを湛え、
微笑んでいた。

 背筋を伸ばし直した仙千代は、

 まだそちらへは行かぬぞ、
儂の夢に出てくるでない、
儂よりも若殿に会いに行け、
夢でも良いから……

 と、思い、
我ながら奇妙なことだと可笑しかった。

 清三郎が生きていた時、
嫉妬に狂い、身悶えし、
あれほど苦しんだのに、
最後は真の友となり、打ち解けた。
 
 あの世は閑なのか、
儂の夢に現れるとは……

 目が覚めてきた仙千代は、
広間から届く賑やかな様子を確かめると、
宴は未だ続いていると知って、
御殿の外へ出た。

 岐阜と同じく山の多い岡崎だが、
少しばかり南に行けば海があり、
海浜育ちの仙千代は、
鼻孔の奥に潮の香を探った。

 流石に海辺とは違うか……

 夜風にあたっていた仙千代の耳に、
不穏な調子が伝わった。

 一人と数人の言い合いは、
徐々に熱を増し、
騒擾(そうじょう)になりかねない程に、
高まっていた。

 

 


 

 

 




 

 

 


 


 
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