第366話 秀一の前途

文字数 2,198文字

 信長、尚清(ひさきよ)両者の間で秀一、(はる)の婚姻が決定され、
家中は翌朝その件で持ちきりだった。
 秀一は明晰にして容姿に恵まれ、
家柄は確かであって、
しかも信長の寵童を務めた側近だった。
 その秀一が
積年の忠節に於いて比類なき飯尾家の姫を娶ることとなり、
尚それが姫の望みであったということで、
城中はこの話題に湧いた。

 飯尾家から(つま)を迎えるということは、
織田家の外戚となり、
閨閥は華姫の従姉(いとこ) 徳姫が嫡男に嫁した徳川家、
公卿の三条家、名門武家の細川家、
信長の乳兄弟を当主とする池田家、
池田家を通して金山城主の森家、
そして稲葉家、武田家、本願寺、今川家と、
数多の名族と縁が繋がることを意味し、
秀一の将来は極めて強固な後ろ盾を得たと言って良かった。

 「羨ましいのう。
長谷川殿は賢い上に美男子じゃ。
 さすれば福も向こう様から寄ってくる。
何処まで出世されるやら」

 「上様も今朝は(こと)のほか御機嫌であらせられるという。
可愛がられた御小姓が姪御様の御眼鏡に適い、
縁組の運びとなった。
 まさに稀なる慶賀。
まあ、我らとしては上様の甥御様にして
殿の従弟(いとこ)となられた長谷川殿には、
今後いっそう頭が上がらぬということじゃろう」

 「一方、加賀。
一向宗を相手に柴田殿が奮迅しておられる。
 慣れぬ寒さに辛苦を重ね、はや幾年。
 柴田殿、御苦労様じゃ。
 岐阜の爛漫に比べ、北陸は春が遠いの」

 「上様の御傍衆は昨今、若手が台頭し、
たとえ歴戦の雄であろうと例えば堀殿、
長谷川殿、万見殿の取次なくしては御尊顔を仰がれぬ。
 もう槍働きは古いのか。
 武功なくとも出世の階段を上がる時代か」

 仙千代がやって来ていると気付かず、
織田家が地方大名だった頃からの古参が秀一の慶事に羨望、
嫉妬を滲ませ、口の端に上げていた。

 仙千代は構わずそこを通った。
 二人はハッとしつつも行く手を開けて頭を下げた。

 この晩秋、北陸平定戦で、
堀秀政は秀吉の与力として一部隊を率い、
実戦に出て、初の武功をあげた。
 仙千代、秀一は、目付、奉行、
また検使として戦場に出向き、働きはしているが、
戦績は未だ無かった。

 というのも信長が、
尾張、美濃だけを治めていた頃とは異なり、
織田家の覇道は二国のみならず、
畿内、伊勢、北陸と拡大し、
徳川家の三河、遠江とて信長の安堵によって、
(もたら)されているとも言え、
広大な領地を管理把握し、
のみならず南国、西国、北に至るまで各国諸将とやり取りをして、
公家達の訴えをも(さば)き、
指示、発令は膨大な量に膨れ上がっている。
 古参の家臣が尾張時代を懐古するのは自由だが、
仙千代ら近侍も夜討ち朝駆けで働き通しであって、
何も霞を食って暮らしているのではなかった。

 年内に秀一も重勝も祝言を済ませ、
年が明ければ信長側近は安土へ引き移るということで、
明日明後日あたりから両人は結婚支度の為、
各自、帰省が許されていた。

 昨日、華姫との縁談が決定された秀一は、
務めを終え、自邸に戻っていた。

 家人(けにん)に通され、座敷へ行くと、
日没が近い中、何やら一心不乱に(したた)めている。
 室内は墨の香りがした。

 仙千代が近付くと、

 「写経をしておった」

 と筆を置いた。

 「竹が写経とは。ほう、珍しい」

 「仙はやっておるのか、今も」

 「不思議じゃな、じっと目を凝らし、
一文字一文字綴っておると
文字一つ一つが生き物のように思われ、
心がそこへ集まって、他を忘れる。
 以前程ではないが今も時にな」

 「うむ」

 秀一は、

 「月が上がる頃だ。縁へ出よう」

 と誘った。

 長谷川邸は前庭の植栽が凝っていて、
秀一曰く、

 「父上がここへ顔を出すたび、
植えてゆき、斯様な庭に」

 ということだった。
 長谷川丹波守(たんばのかみ)与次は家中有数の風流人で、
秀一に対しても茶を熱心に指導していた。

 「竹と華姫様の縁談で、
あちこち持ち切りの一日じゃった」

 「姫は上様の姪であり殿の従妹(いとこ)
確かにそうじゃ。
だが儂は徳川様との縁を思われずにおられぬ。
 幼かった儂は橋介叔父の思い出は三つ、四つじゃ。
 が、大好きな叔父じゃった。
 桶狭間から生還した叔父はやがて、
幼くして嫁がれた徳姫様の御付人となり三河へ参じ、
徳川軍一員として三方ヶ原で戦い、散った。
 上様が仰るに、
一歳違いの徳姫様と華姫は手紙(ふみ)を交わし合い、
親しい仲であるという。
 橋介叔父が最後に仕えた御方が徳姫。
 縁を感じずには……」

 そして秀一は、

 「今年も一年が終わる。
この冬は特に忘れ難いものだった。
 青い時代は終わったのだ。
 儂の青い時代は……」

 元服を終え、室を娶るのであるから、
確かにそれはそうだった。

 「華姫様。
必ずや良い御気性の姫であらせられるであろう。
 あの徳姫様と気がお合いになられるのなら、
打てば響く、聡明な御方に違いない」

 と仙千代は朗らかに祝した。

 「それもそうじゃが……」

 「が?」

 「徳姫様御同様、薙刀(なぎなた)の鍛錬に熱心であられると」

 「薙刀か!」

 「掛け声も勇ましく、
毎朝必ず稽古なさっておいでだという」

 「そ、そうか……。
それは心強いな。
良かったな、竹」

 「う、うむ……」

 「主の居ぬ間は室が家中を取り仕切るもの。
さぞ、威厳がおありであろう。
 うむ!……」

 一瞬同時で黙し、
次に二人は声を上げ、笑った。

 「竹!姫の朝稽古の声で目覚める日々。
それもまた良しだ!」

 「そうかの。そうなのかのう」

 澄み切った大気。
 頬の火照りを撫でる風。
 月もこちらを見、笑っているようだった。


 

 

 
 

 

 

 


 

 

 

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