第266話 柴田(2)青井戸

文字数 1,082文字

 仙千代が披露したのは、
茶碗に於いて最高峰とされる井戸茶碗、
中でも名器の誉れ高い「青井戸茶碗」だった。
 
 信長が所有する数ある名品茶碗の中で、
道中にも「青井戸」を携えているのは、
この茶碗の持つ独特の温か味を味わい深く好んだ為で、
戦地の束の間の休息で、
掌に取ると云うに言われぬ穏やかな心持ちとなり、
観れば清々しい境地へと器が連れていってくれることを
故としていた。

 ああ、仙千代!
何ぞ持ってまいれの何ぞは刀じゃ、剣じゃ!
 何故よりにもよって青井戸を!
儂の宝の青井戸を!……

 信長は座した尻の下まで汗を感じた。
 が、口調は平静を装っている。
 ここで狼狽を見せては仙千代に負け、
勝家主従にも敗北を喫するような気になって、
引くに引けず、鷹揚を取り繕った。

 「仙千代……」

 「はっ!」

 「良う選んでくれた……」

 信長の何もかもを知ることに於いて、
居合わせる秀政も仙千代と同様であり、
よもや調子の弱々しさを悟られまいか、
いや、悟られてはならぬと信長は、

 「なるほど。青井戸ときたか」

 と朗らかに応じた。

 「上様が何処にも必携なさる御愛用の名器にて、
なれば越前国主となられた柴田修理亮(しゅりのすけ)殿におかれましては、
青井戸茶碗の他、記念の御下賜は思い当たらず、
名品を何なりとお授けになろうという上様の御心に、
器を戴く手も心も打ち震えましてございます」

 「……うむ……」

 すらすらと涼し気に口上を述べた仙千代は
取り澄ました顔、
仙千代の上席に控えた秀政も神妙にして、
眉ひとつ動かさず居た。
 
 仙千代の言い様は澱みなく流れるようで、
その実、巧妙極まっていた。
 現段階、正式な任官ではないものの、
勝家が好んで自称している、

 「修理亮」

 という位を用いて敬称し、
かつ、市との婚約はあくまで内々の決め事であり、
宝物の賜りは国主となった祝賀なのだと装うことで、
未だ気鬱を催すことのある市本人に縁談を内密とし、
他の家来衆の精神的動揺、
平たく言えば信長の濃縁者となる嫉妬からも、
勝家を守る配慮を利かせたものだった。

 積年の市への思慕を伝えたからには、
市を迎えたい一心であった勝家は
最高峰の名器を前にして何とも複雑な表情で、
嬉しいのか悲しいのか、入り混じっていた。

 「どうした。受けぬのか。
天下の名物井戸なるぞ」

 決めたからには信長も引き下がれはしない。
勝家が茶碗は要らぬ、
是非にも市を正室にと言い張ったなら、
それこそ一刻者の勝家と唯我を専らとする信長との間に、
良からぬ気配が生じてしまう。
 信長が勝家の豪気、純朴を好む思いは一貫していて、
晴れがましいはずのこの場で、
まさか不穏を醸すなど望みもしないことだった。
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