第420話 武人の茶

文字数 1,720文字

 三宅川の畔で初めて会った日、
仙千代が銀杏(いちょう)の実を古代唐土(もろこし)の星の位置に並べ、
無心に戯れていたあの時の二人を思い出す。
 その後、儀長城の謁見の間で再会し、
奇妙丸だった信忠が餅を持った仙千代に心中で、

 「美味いか?」

 と訊くとまるで声が届いたかのように両手で餅を口へ運んで、
ぱくっと食べた。
 後日その尋ねが何故聴こえたのか問うと、
何も聴こえてはいない、
二人はきっと息が合うのでしょうと身分も弁えず答え、
にっこり笑った。
 潮の香の素朴な童の率直は好ましかった。
 元来仙千代は慎ましく、
前に前にと出る(たち)ではない。
それが信忠の前では小姓として緊張を保ちながらも、
生き生き振舞う姿が鬱屈としていた奇妙丸の暮らしに色を付け、
喜びを与えた。
 要は二人は馬が合い、ごく自然、惹かれ合ったのだった。

 急坂を駆け上がるように覇道を突き進む信長の寵臣として、
今や仙千代は若手側近の筆頭集団に居て、
この先も道は輝いている。

 盗人だと言い張って傷付けたことを独り詫び、
枕を濡らす夜があった。
 が、信忠が期した以上に仙千代は有能を発揮し、
努力の怠りもなく、出世街道を邁進している。

 父が行き、仙千代も行く……
此度が現世最後の別れではないと
いったい誰なら言えるのか……
 であるならば慕い合ったあの心まで否定して、
無かったことにするは、
仙千代の存在自体否定して己をも否定することになる……

 長頼、秀政、秀一ら秀才、能才の集まった今朝の茶席は、
武才は乏しくとも独自の世界に遊ぶ才を持つ叔父はじめ、
織田家の優駿が並び、独特の雰囲気を醸していた。
 信忠の臣下、清蔵、三郎、勝丸は無論、
茶事の手伝いに勤しむ新顔の小姓達とて銀吾、祥吉、虎松、藤丸と、
皆それぞれ優れ、見どころが際立っている。
 
 今一度、信忠は、
茶を点てることに専念しあらためて心の内を確かめた。

 仙千代が生きる意味を教えてくれた……
儂もまた仙千代の生に彩を与えた……
 そのはずじゃ!……

 やがて長益の声が研ぎ澄まされた空間に響く。

 「そこまで寄り集まらずとも。
我らは武人。
 鎧を付けての茶席もござる。
あと幾ばくか悠々と座しなされ」

 茶室そうろう窮屈な程に近付いていた全員が長益の真意を察し、
僅かばかり身体を離し、
広間でありながら余りに密着していたことに今更気付き、
苦笑を浮かべる者も居た。
 確かに合戦場での茶も現実にあり、
それは死を覚悟しての交わりとなる。
 茶室という極小の凝縮された空間ばかりが
武人の茶席ではなかった。
 長益は最先端都市、堺の豪商や文人を師とし茶を学んでいるが、
武才は乏しくとも織田家の血筋としての矜持があって、
屋敷を訪れた公家もが驚嘆したという一流の数寄者にして
武と剛の強者であった舅、亡き平手政秀の影響もあるか、
時に独自の感覚を茶の湯に見せた。

 長益の一言で席はいっそう明るみを帯び、
時折ふと別離の寂しさを滲ませがちだった誰もが、
礼に適いつつも希望に満ちた表情となった。

 集中した意識が心を裸にし今、信忠も仙千代を見詰め返した。

 すべて己が決めたこと、
誰の指図でもなく運命も定めも何もない、
儂がすべてを決めた……

 いくら冷淡に振る舞おうともそこに仙千代が居れば
心の目では追っていて、
姿、所作、声、すべて好ましく愛おしかった。

 仙千代を思う気持ちは変えられなかった、
これを手放す必要などない、
仙千代が光を与えてくれた……
 仙千代を忘れる必要が何処にある、
在るものを無いと偽ったなら、
それこそ己を汚すことになる……

 仙千代を盗人扱いしたことは未だ胸が疼く。
 が、当の仙千代は信忠に目を逸らさずにいて、
眼差しは確かに互いの真情を映し合っていた。

 仙千代、思いは同じなのか?
 過去は過去、今は今……
 袖を重ねることは無かろうと、
これからも儂を慕ってくれるのか?……

 仙千代は信忠の茶を飲み干すと、

 「まこと、美味しゅうございました」

 と潔い口調で結び、信忠を見据え、

 「お仕えした日々も今朝のこの一服も、
生涯忘れることはございません。
 感謝の思い、
永劫、胸に刻み折りましてございます」

 と器の温もりを記憶に刻み付けるように、
両の手で包んだ。

 返された器は信忠の手にもしっかりと温かだった。

 

 
 
 



 

 


 

 


 
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