第432話 第三部 了に寄せて(6)

文字数 1,569文字

 ……山口小弁③

 役者の出という小弁について伝えられる幾つかの逸話は、
もしや脚色が加味されたものかもしれません。
 (後述)

 万見仙千代が、
信長の一段(特別)の気に入りであったと記されている
興福寺『多聞院日記』。
 
 仙千代は大和永年の支配勢力である興福寺や法隆寺に出向き、
当地では交渉事に足跡を残しており、
任務をこなす上で仙千代の権勢に信長の威光は
確実に繋がっていました。
 これもまた事実、
信長の座所に繋がる最終点、要は信長の住まいの切先である
安土城 黒鉄門(くろがねもん)に万見邸はあり、
『信長公記』等々の記録によれば
仙千代は自邸で諸侯や各国使者を饗応し、
仙千代存命時には安土に屋敷を建てていなかった信忠の
当時の宿所にもなっていて、
信長に継ぐ権威の主が泊まる先が万見邸なのですから、
享年21とも言われる仙千代の威勢に驚かされるばかりです。
 
 合理的思考の主、信長。
 万見邸が安土での織田家当主、信忠の常宿であることの意味。
 特別出来る子、見込みのある子でありながら家格が弱い。
 そんな仙千代を確実に出世コースに乗せるにはという
信長の意図が見えるようです。
 また、信を置く仙千代に、
次期織田政権の未来を託すといった熱望も
あったかと考えられはしないでしょうか。
 
 仙千代没年の正月。
信忠主催の名物(茶道具)披露の茶会が万見邸で行われています。
 菅谷長頼、堀秀政という上席の近侍を差し置き、
仙千代の邸が信忠の催すハレの席の会場となる。
 仙千代の栄華は極まって、
他の側近を凌駕したと言って良いかもしれません。

 興福寺であれ法隆寺であれ東大寺であれ、
いや、各地に散る方面団長の重臣達でさえ、
「上様」となった信長への上奏は仙千代を通さねばならず、
側近の顔色を窺うことに不満を漏らす武将も中には居たといいます。
 後ろ盾らしい後ろ盾もない仙千代にしてみれば、
御役目をただ懸命に務める他なかったと思いますが、
例えばヴェルサイユ宮殿でも比喩ではなく、
実際1ミリでも王の近くに侍ることに貴族達は
日々執念を燃やしたと言いますから、
信長が住まう本丸の最終ポイントに邸を与えられた仙千代は、
織豊(織田・豊臣)時代研究者からさえ、
「万見という不思議な名は信長自ら与えたのではないか」
という声が漏れる程の信任(寵愛)ぶりも加わって、
いっそう嫉妬、羨望を呼んだかもしれません。
 とはいえ信長は色(欲)で人物眼を狂わせる人ではありませんから、
仙千代の有能ぶりも否定し難く、
また饗応役を任されていたことを見ても、
仙千代は聡明であると同時、
社交に長けた人物であったと想像されます。

 当時、衆道、男色はごく当たり前のことでしたから、
第一級史料の『多聞院日記』に仙千代という人の修辞として、
信長の寵愛ぶりが特筆されるのは余程であって、
また記した高僧 英俊の仙千代に対する直の印象も
間違いなくあったと思われます。
 
 仙千代の機嫌を損ねては信長が出てくるかもしれない、
穏便に済ませこれ以上寺の権を削られないようにし、
何なら徳政令も発布願えないものか……
 
 といった感じでしょうか。
 事実、生前、仙千代は、
興福寺の徳政令願いの件、任されていました。
 
 『多聞院日記』は当時の超一流の教養人がリアルタイムに
日々の出来事、見聞を書き記した第一級史料です。
 そこに若輩の身の小弁は出てこず、
江戸時代に入り森(乱丸)成利が森蘭丸として描かれ、
大衆読物として人気を博し、
今では「蘭丸」として定着した例に似て、
小弁も死後150年程経った後『常山紀談』等、
戦国武将の痛快劇や言行録に登場しました。
 (信忠死後、
織田家の「当主」となった弟の信雄(のぶかつ)の分限帳に
同名の人物が載っていますが、
それが実は生き残った小弁であるのか、
または小弁の子や縁戚なのか、
はたまた単に同名の他人であるのか明確ではありません)
 

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