第324話 残香(3)幼き眼

文字数 1,410文字

 虎繁他界の同日、
酒井忠次の二男、九十郎が麻疹(はしか)が快癒したといい、
見舞いの礼に万見邸へやって来て、
虎繫の刑を、

 「今では嫁ぎ、
三河の地にて不自由なくやっております姉が、
かつて今川が武田に攻め込まれ、
敗北した後、駿河から甲斐へ送られ、
秋山虎繫の館で暮らし、
やがて我が父の策謀で脱出する際、
姉と駿河、甲斐で共に居られた松平源三郎様が、
冬山越えの厳しさで凍傷に罹り、
足の指を失って未だ療養の身であらせられること、
万見様も御存知でございましょう。
 徳川の殿の大切な異父弟(おとうと)君、源三郎様を思えば、
秋山は憎うございます。
 なれど、忠義の生涯。
 可哀想だと私は洩らし、
すると家来が、
同情には値せぬ、
あれも秋山の最後の務めなのだと申すのです。
 万見様。
 逆さ(はりつけ)が最後の務めとは、
如何なることなのでしょう。
 惨めではないのですか」

 来たる新年、
ようよう七歳という幼児(おさなご)が精一杯の知恵を巡らせ、
紡いだ言葉は、
他国での人質暮らしという、
日ごろ、家臣だけに囲まれ育った境遇故か、
仙千代が同じ齢の頃の様子とは大きく違って、
まるで小さな大人のようだった。

 「万見も答えは出ないのです。
いつぞや近々、来たる正月にでも、
父君が岐阜を訪問なさるでしょう。
 父君にどうぞ、お尋ねあそばせ。
左様な謎を抱かれた九十郎様を、
父君はさぞ、喜ばれるでありましょう」

 「父上が正月に?」

 各国の大名、領主、富豪、学者達が、
新年には岐阜へ挨拶で訪れる。
 近年、家康の名代は酒井忠次と決まっていた。

 仙千代は微笑んだ。

 「いらっしゃいますよ、きっと必ず。
父君は九十郎様の御成長に目を細められましょう」

 「成長……武士の最後の務めとやら、
父上は答えてくれますか」

 今一度、仙千代は笑んでみせた。

 「万見など、九十郎様の年頃では、
いかに高足で転ばず進むか、
いかに凧を高く上げるか、
左様なことしか頭にありませなんだ」

 「高足!」

 九十郎の目が輝いた。

 「岐阜へ来て直ぐ、
万見様に作っていただき、あれはとても楽しく、
今は少し足を長くしてやっております!
ずいぶん速くなったのですよ!
でも凧は存じません。
わあ!揚げてみとうございます!」

 話題が移れば直ぐに笑顔となるのが、
やはり幼童だった。

 「上様や御家来衆の御子様で、
凧揚げの得意な若様達が何人か居られます。
 これからは折を見て、
もっと御一緒なさるのが宜しいでしょう。
凧は揚げるだけでなく、
作るのもとても面白いのですよ」

 「はい!
明後日に凱旋される若殿様も、
凧はお揚げになりますか?」

 仙千代はじめ、場に居る誰もが声をたてて笑った。
 信忠は総大将戦で初勝利を収め、
家督を譲られる道が待っている身の上で、
無論、凧を揚げて遊ぶ年齢でも立場でもない。

 「おそらく、間違いなく凧揚げをお好きでしたよ、
九十郎様と似た齢の頃は」

 「凧揚げをして、
お見せしとうございます、父上に!」

 「是非是非、そうなさいませ」

 九十郎の明るさは健やかに育っている表れで、
人質提案をした仙千代は、
その明朗に安堵した。

 御坊丸様も、
斯様にお育ちであらせられれば良い……
 松姫様が愛しく目を掛けて下さっているはず……
 若殿の弟君であらせられるのだ、
松姫様が守って下さっている、必ずや……

 暫し、九十郎の相手をしつつ仙千代は、
信忠の帰国を一日千秋で待ちわびる思いと、
御坊丸、松姫を案じる憂いが()い交ぜとなり、
複雑な感情を解きほぐすことに難儀した。

 

 


 



 

 

 



 
 

 
 

 
 

 

 


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み