第280話 祝賀の日々(10)神鹿②

文字数 925文字

 信長はニンマリしている。

 「春日社を擁す大和は興福寺の鹿を、
亡き(しゅうと)殿由縁の京の妙覚寺にて食し、
摂津は本願寺の坊主達にも振舞ってやり。
 面白いのう、実に愉快じゃ」

 信長の正室の父、美濃の斎藤道三は、
二代にわたってこの妙覚寺と縁があり、
道三とその父は揃って、
妙覚寺の僧として暮らした日々があった。
 信長が京で、
殆ど決まってここを宿とするのは、
道三の息子の一人、要は信長にとっての義弟が住持を務めるなど、
斎藤家が妙覚寺を敬い、関りが続いていたからで、
京での座所とするには、
こちらほど安んじられる地は特に上洛初期には見当たらず、
信長は力をつけるにつれ、
恩に報い、寺を厚く保護した上、
親しみをもって好んでこちらに滞在した。
 
 道三は一介の武士が国を盗ったと言われ、
たいした強者だったが、
(うつ)けと呼ばれた信長を高く評価し、
舅と婿の間には揺らがぬ敬意があった。
 尾張統一に苦しむ信長が家康の伯父、
知多の水野信元救援の為、
嵐の伊勢湾を渡海し、村木砦に向かった際は、
信長不在の那古野城に美濃から千名もの斎藤軍を差し向け、
空っぽの城が婿の敵たる織田家の親類衆に奪われぬよう、
一夜、守り切り、翌日、
満身創痍の信長が帰還を果たすと、
直ちに斎藤軍は退去して、
その鮮やかな手並みは、
多くの家臣を村木砦で喪った信長の感涙を誘い、
舅の二心無き厚誼に応える為にも捲土重来を強く誓ったのだった。

 妙覚寺での上様は、
青雲を抱いた若き日の舅殿に見守られておるようだと仰せになり、
御顔が明るいことが殊更じゃ、
道三公の遺言書には、
美濃は婿に譲ると確と認められてあり、
その書はこの妙覚寺が保管している……
 上様にとり、
岐阜の御城に勝るとも劣らず、
何とも心落ち着く場がここ、妙覚寺、
今後きっと若殿も重ねて宿泊なさるに違いない……

 尾張を一つにまとめ上げ、
舅、道三の仇を討って美濃を併呑し、
百万石以上の力をつけた信長は、
莫大な富を背景に突破力をもって天運を生かし、
新たな時代の扉を開いた。
 そして今、
誰も見たことのない豪奢な城を安土に築くこととなっている。
 岐阜城は信忠に譲られることが、
誰の目にも明らかだった。
 美味なる肉が果たして神鹿(しんろく)であるのかどうか、
不明ながらも仙千代は、今一度、噛み締めた。

 
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