第323話 残香(2)虎繫の最期

文字数 1,946文字

 どのように高く、重く引き立てられて
地位や禄を上げていこうとも、
幼い頃から小姓に入り、
まして閨房勤めをして、
主の最後の盾としての意気を叩き込まれた身である秀政、
仙千代は、現れた信長に思わず飛び上がり、
それぞれ、咄嗟の朝の挨拶や居眠った詫びをして、
それがまた素っ頓狂に聴こえる程に大声で、
信長の口の端に小さな笑みが浮かんだようにも見えた。

 表情を直ぐ戻した信長は、

 「その顔触れで不寝番とは。
初のことだな」

 仙千代が初出仕した時、
秀政は既に(つま)を得て、
特別に優秀な若手集団である馬廻りとなっていたので、
二人が組んで不寝番をしたことはなかった。

 「一興じゃ、
両人で朝支度をせよ」

 信長は言い渡し、洗顔から髪、髭の手入れ、
着付けまでさせた。
 秀政は無論、仙千代にもこうした務めは久々だった。
 それらは若輩の小姓達が行い、
夜伽の後はむしろ、
仙千代も世話を受ける側になっていた。

 朝餉も三人で摂った。
 いつも通りの信長で、
食欲も食べる速さも変わりなかった。

 最後、好物の飛騨の赤かぶ漬けを頬張り、
バリバリと噛み砕くと湯で飲み下し、
たった一度、大きく息を吸うと深く吐き、

 「母上の様子は如何であった。
於濃が傍に付いておったであろう」

 と訊くでもなく訊いた。

 秀政が、

 「上様が最も御苦しみであると。
浄土にて、大殿はじめ、
織田家の皆々様が温かく迎えるであろうとも。
艶姫様を……」

 「儂はまたひとつ、不孝を重ねた……」

 誰一人そのように思う者は居ない、
その苦悩を知らぬ者は居ない、
上様に忠節を誓う者には……
 まして、母君ともなれば尚更のこと……

 仙千代は言葉を胸に畳んで噛み締めた。
 秀政も軽々に返すことはなく、
黙して受けた。

 その後、登城してきた市江彦七郎が、
家臣団屋敷の万見邸で仙千代に、

 「城下では秋山の処刑について、
皆々が口の端に上げておるようでございます」

 と領民の受け止めについて告げた。

 彦七郎は、

 「御沙汰は当然であると口々に。
半年もの包囲戦。
夫が、兄が、弟が、子が、孫が、
季節を二つ過ごすまで帰国が叶わず、
留守の者達がどれほど苦労を重ねたか。
 が、永年の脅威であった武田家に、
この美濃・尾張が蹂躙されることは無いのだと、
秋山の刑を長良の岸辺で(しか)と目の当たりにし、
誰も溜飲を下げ、大きな安堵を得たようで、
あとは若殿の凱旋を心待ちにし、
辻という辻を掃き清め、
家々は凝ってこさえた紙細工の花を門や軒に飾り、
浮き立っております」

 「うむ」

 信長は極めて清潔を好む(たち)で、
信忠もそれを受け継いでいたので
木の葉一枚、路に落とさぬ思いで清掃を心掛けよと
仙千代は号令を掛け、
城内を浄めさせていた。
 それを町衆や百姓までが自ずと真似、
倣いとしてくれていたとは耳にして喜ばしいことであると同時、
領国に災害がなく、重税を課せられもせず、
豊かな実りや商いの繁盛があれば、
誰も君主を自然と敬い、
忠心を捧げるものだと知れた。

 ここで弟の彦八郎が、
少しばかり声を低めた。

 「岩村殿の最期。
上様に怨嗟を叫んだ由、
一日にして下々の耳に届いております。
 斯様な類いの話が流布されるには、
時を要せぬものだと、つくづく」

 「者共の受け止めは如何なるものか」

 「敗将の(つま)が悪言を浴びせるとは、
何と往生際の悪い、
むしろ上様の御刀を汚すとは末期まで不届き千万、
夫、秋山と共に地獄へ落ちる他あるまいと」

 「うむ……」

 「しかし、尋常なれば、
咎人(とがにん)石礫(いしつぶて)を投げられ、
野次を受け、断末魔の苦しみの中、
恥辱に塗れて死にゆくところ、
上様の厳しい命により、
秋山は無謀な群衆や野鳥、獣の害には遭わず、
執行人が日夜、死を見届けるべく、
厳重に見張っております。
 逆さ(はりつけ)とはいえ、
源氏の高家の末裔にして猛牛と呼ばれた名将、
秋山虎繫への御配慮、
思わないではおられませぬ」

 「うむ……左様な御方であらせられるのだ、
上様は。
 上様は、左様な御方であらせられるのだ……」

 仙千代は絞り出して応えた。

 三日後、信忠の帰還を待たず、
虎繫は絶命した。
 (すさ)ぶ伊吹おろしに加え、
(みぞれ)が夜通し降って、
過酷な天候が虎繫を苦痛の極みから救ったのだった。

 首は河原に晒された。

 信長は、

 「七日後、甲斐へ送り届けよ。
首は故郷へ帰り、
四郎勝頼が手を合わせるであろう。
 思えば惜しい男であった。
ほんに、惜しい男であった」

 と哀切を隠さずに言い、
武田家に知己のある日根野弘就(ひろなり)が、
使者の任を受けた。
 勝頼の許には御坊丸が居る。
 首を届けることは外交の一端であり、
単なる当てつけ、勝利宣言ではなかった。
 織田家の親族を数多喪った長島一向一揆征圧戦で、
敵将であった弘就にこのような役を負わす信長は、
昨日の敵は今日の友、逆もまた真なりという、
戦国の世そのものを体現する武将であることは、
間違いなかった。

 
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