第204話 楚根城(7)『鞍馬天狗』③

文字数 715文字

 仙千代が懐紙で涙を拭っていると、
一鉄に下問する声がした。

 「入道殿」

 「はっ!」

 「何処ぞで前に観たものは、
僧が稚児に見立てた梅の木に語り掛け、
想いを伝えるという場面があった。
今日は見掛けぬな」

 連歌を得意とする信秀を父に持ち、
茶の湯に一家言のある平手政秀に養育された信長は、
嗜みとして自身が舞うのは
猿楽に比較し自由度の高い幸若舞(こうわかまい)だが、
過日、尾張の一奉行家でしかなかった織田家ながら、
幕府の高家 今川家、
源氏の名門 武田家を圧倒的に凌駕して、
朝廷の困窮に寄進を行うというような
豊かな家に育ったことを故として、
文化に対する知験はあって、
ただ物語に入り込み、
感涙している仙千代とは別の視点を持っていた。

 「日没までの御帰還に障りがあってはと、
幾ヵ所か端折ってございます」

  「一鉄一座」の鞍馬天狗は、
僧達と稚児の男色や、
大天狗と牛若丸の恋慕の情は淡く描かれ、
師弟愛、御家再興に重きを置いて演じられていた。

 「なるほど」

 信長は髭を撫で、
仙千代が預かっていた御腰物、
つまり刀剣に目を遣った。

 と、ここで仙千代は、
しばし前から信長は、
いわゆる源平交代説を採っており、
源氏、つまり足利家の後には
平氏が世を治めることが天理だとして、
平家の血筋を(もっぱ)ら標榜していると思いが行った。
 越前織田荘のいにしえの神官が織田家の発祥で、
平氏というのは信長が覇権を進める上での方便であり、
実は違うと誰より信長が知っている。

 斯様に義経を賛美して、
上様は如何お思いになられるか……
 これは平家を滅亡させる物語でもある……

 幽玄にして艶やか、
華やかながら勇ましい演し物につい没入し、
ようやく己を省みた仙千代は、
演目への信長の心持ちに不安を覚え、
その顔を見た。

 
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