第281話 祝賀の日々(11)神鹿③

文字数 864文字

 「まこと、この肉は神鹿(しんろく)か、
訊かぬのだな。
 内実、疑っておるのであろう」

 「ではお尋ね致します。
昨年来、生け捕りされた大和の鹿は、
人の手により数を減らしておるのでしょうか」

 膳に上げる為、
手に掛けたかどうかという問いだった。
 去年、初めて鹿を連れて来させた信長は、
しばらく妙覚寺に留め置いて、
所司代として京に邸を構える村井貞勝に後では預け、
世話をさせていた。

 「庫裏(くり)で確かめてこれば良い、
何処から持ち込まれた鹿か。
が、神鹿でも野鹿でも変わりはせぬと申したぞ」

 信長は子供が愉快な悪戯をしたかのような顔、
口調になって、

 「興福寺は、
儂が鹿をかすめ取ったとして鬱憤を抱いておるくせ、
昨年その直後、(ばん)に酒を献上しておる。
 節句でも祝事でもない時期に
珍酒を贈ってきたそうじゃ。
 嫌味なこと、甚だし。
 気に食わぬなら気に食わぬで正面から申せば良いに、
ただ不満を左様に嫌らしく。
 塙が持参いたしますと言うてきたから、
興福寺の酒など要らぬ、
庭へでも撒いておけと返したわ」

 大和に於ける大権力を信長により削られた興福寺は、
面従腹背の文字どおり、
表面上は新たな権威、
つまり信長の威勢を穏やかに受け容れたが、
千年近い歴史を背景にした、
例えば神鹿を殺傷すれば人も同じ目に遭うという習俗ひとつ、
変化を見せず、鹿を傷つけたなら、
たとえ童であろうと厳しく処断していた。

 信長は信仰も信心も決して否定せず、
事実、為政者として均衡をもって、
どの宗派も扱っていた。
 だが独自の教義に拘って、
世俗から遊離した教えをもってして人心を惑わし、
人命を軽んじるかのような集団は、
断固と許しはしなかった。
 興福寺にしても永年、
大和という難渋の地をまとめてきた功績は認めぬものではないが、
一方で、獣と人の命の価値が逆転している有様は、
信長の正義とは相容れず、
この信長が捕えても断罪するのか否か、
やれるものならやってみろ、
論争はいつでも受けてやるという意志の表れで、
興福寺はといえば衝突を好まず、
逆に、珍しい酒を守護の塙直政に貢いでみせ、
内心の不快を表明したということだった。

 
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