第70話 岩鏡の花(2)検使②

文字数 909文字

 信忠が水晶山の陣に入り、
印象深かったのは、
あちらこちらに咲く岩鏡(いわかがみ)だった。

 光沢のある、
濡れたような葉が鏡に喩えられる、
高地でしか見られぬ草木(そうぼく)で、
赤紫、薄桃、稀に白い花を、
晩春から夏に咲かせるという。

 先端が細かく裂けた花弁が風に揺れて、
俯いて咲いている姿は、か弱く見えながら、
茎は赤さも鮮やかにすくっと立って、
気概を秘めているように映り、
信忠は、離れて長い大叔母、
御艶の方を思い浮かべた。

 他の花なら嫌がるような岩場の隙間や、
切り立った崖の斜面に葉を這わせ、
懸命に咲いている……

 秋山虎繁が四度目の夫となった艶姫は、
生涯、初の子に恵まれて、
ようやく幸せを掴んだはずだった。
 だが、二人は良かろうとも、
乱世の宿命がその幸福を許さなかった。

 岐阜を出る前、
信忠は信長に命じられていた。

 「向かうは敵の城。
努々(ゆめゆめ)、忘れ召さるな。
出羽介(でわのすけ)殿は若い故、
難渋な局面で迷うことがおありであろう。
判断つきかねる時は、
くれぐれも与兵衛(よひょう)に訊き、
与兵衛の意を父の意と思い、従うように。
けして与兵衛を困らせてはならぬ」

 信忠軍の副将に付けられた与兵衛こと、
河尻秀隆は、
信忠の祖父 信秀に従って十六歳で初陣を飾って以来、
織田家三代に仕え、
信長は絶大な信を置き、
秀隆が病を得た時は、
幾度も見舞いの使者を送った程だった。

 今回は信忠の初の総大将戦を勝利で飾るべく、
これより前、
秀隆が先んじて落とした当地の城を、
信長は秀隆に任せていて、
秀隆の東美濃に対する熱意にも、
並々ならぬものがあった。

 同腹の弟 信雄(のぶかつ)は、
織田家の伊勢支配を一段と堅固なものとする使命を帯びて、
国司である北畠家の当主の妹を娶って養嗣子(ようしし)となり、
北畠家中の実権を掌握すべく、
伊勢国の人となった。
 異母弟の信孝も、
信雄より前に北伊勢の神戸(かんべ)家へ、
やはり養嗣子となって入り、織田の名を離れている。

 家督相続に辛酸をなめた信長なればこそ、
信忠以外の織田家の男子は、
早くから他家へ出されて、
だからこそ信忠は、
信長の後継者として、
何としてでも武功をあげる必要があった。

 でなければ、上様にも、
弟達にも、顔向けが出来ぬ……

 艶やかに咲く岩鏡の花に、
信忠はじっと目を凝らし、外さなかった。




 

 
 


 


 

 


 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み