第31話 熱田 羽城(2)加藤邸②

文字数 1,275文字

 信長には縁の深い大高だが、
一帯は直ぐ西の鳴海城を任せてある佐久間信盛父子が
目を光らせていれば事足りるとして、
桶狭間の合戦後、大高城は廃城となっていた。
 
 家康と結んだ同盟は揺るぎないもので、
国境警備一つ取っても、
織田軍をたいそう楽にさせていた。

 熱田の加藤邸に一泊することは伝えてあるので、
昨夜のうちに鳴海城に帰還していた信盛の嫡男、
信栄(のぶひで)が境川で信長一行を迎えた。

 岸辺に信栄達が見えていたが、
信長は橋の中央でいったん馬足を休め、
仙千代と続けた。

 「よもや、
藤助を間者(かんじゃ)に仕立てたのではあるまいな」

 信長から見た藤助は無骨、不器用な男で、
とうてい間者、
つまり忍びが務まる(たち)だと思われなかった。
 (きこり)に扮して武田の砦を偵察して回ったことは、
やむにやまれぬ郷土愛の発露であって、
藤助のような者は(まつりごと)の外に居るからこそ、
人品が光る。

 ああした男を草に仕立てて配下に入れるというのなら、
まさしく悪手に他ならぬ……
仙千代であろうとも、
安易な見立は強く叱責せねばならん……

 信長はいくらか気を重くした。

 「まさか。致しませぬ。
あの者は三河を愛し、三河に生きる者。
骨の髄まで吉川郷の者なれば、
三河の為に今生を生きる男でございます」

 信長は安堵した。
 仙千代を他の耳目の中で叱ることは、したくなかった。
 二人だけならまだしも、
周りの目がある場所で仙千代の威光が傷付くことは望まなかった。

 不安が飛んだ胸中に、
信長は我ながら苦笑を禁じ得なかった。
 仙千代相手では、
他の家臣に接するようにはどうもいかない。

 「されば岐阜で鰻とは何なのだ」

 聞けば、仙千代は、
雨夜の行軍の腹の足しにと氷砂糖を藤助にやり、
悪戯心で信長から注がれた酒の盃を包みの底に
忍ばせておいたのだという。

 「おかしなことをする奴だ」

 「上様はお気付きでいらっしゃらないやもしれませぬが、
藤助のような山域(やまが)に暮らす地侍にとり、
上様はじめ、徳川様、酒井様らが居並ぶ軍議に招かれて、
評定に加わり、
後には秘密の会合で勝利を期して一献賜るなどは、
望外の名誉にて、
酒を注いでいただいた盃は末代までの宝でござる。
氷砂糖を食べ終える頃、盃が現われたなら、
嬉しさも面白味も増すであろうと
戯れてみたのでございます」

 「ふうむ。左様なことが。
やはり、おかしな奴だ」

 「可笑しがる上様こそ、
可笑しゅうございます」

 「そうか」

 信長の馬が止まっているので、
隊列すべて停止しているが、
誰もがじっと待っていた。

 「ああした男に間者になれというのは酷な話で、
むしろ反感を招かれかねず。
なれど、この私とて、
九十郎殿をお預かりし、
岐阜で見守る役目を仰せつかり、
あまつさえ酒井様とは今後やりとりが続きます故、
無策ではおられませず、
織田と徳川の縁が永らく続くよう、
互いの友誼を大切にして、
今後も何くれとなく報せあおうと
藤助に告げたのでございます」

 仙千代にこれ以上は無粋だと知りつつ、
信長は好奇心を押さえられず、
尚も尋ねた。

 「あやつは三河の衆。
長篠の奥平家、
吉田の酒井家の合間に住まって、
代々が吉川の水を飲み、暮らしてきておる。
信用できるのか」

 


 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み