第56話 無官(2)

文字数 909文字

 一時は華やかに武名を轟かせた武田勝頼が、
官位を持たない理由を勝丸は三郎に尋ね、
何故だと思うと問い返されると、

 「京の治安の回復と安定、
また禁裏や御公家衆の暮らしの安寧は、
上様の御力によるもの。
上様への遠慮が為せる仕業でしょうか。
もしくは、幕府崩壊後、
上様が将軍に成り代わり(ままつりごと)を担っておられます故、
上様が裁可に難色を示されたのか……」

 と考えを纏めつつ、述べた。

 勝頼の猟官が実を結ばなかった件が、
信長との間で出たことはなかったが、
勝丸は良いところをついていると思いながら信忠は聞いた。

 三郎と勝丸の話は続いた。

 「どちらかは儂には分からぬ。
朝廷の忖度(そんたく)なのか、上様直々の御判断であるのか。
しかし結果は同じことだ。
四郎勝頼に位を与えて、見返りはどうか。
上様の御機嫌は如何なるものか。
朝廷は天秤にかけた。
そんなところであろう」

 勝丸の眉はますます(ひそ)められた。

 「朝廷は雅なものだと思うておりました。
美しい雲上(うんじょう)の世界だと」

 「そうは思っておらぬのか、今は」

 「よくは分かりませぬが、
何やら冷厳極まる……
いえ、冷酷と言うべきか……
熱い血潮を滾らせるは、
きっと無粋なのでしょうね、殿上(てんじょう)では」

 「何の位も持たず、
風林火山の戦旗も認められぬ四郎勝頼に対し、
上様は参議、若殿も正五位下、
加えて栄えある出羽介(でわのすけ)殿であられる。
世の趨勢は誰が見ようと明らかだ」

 「はい!まずは岩村城攻め。
天下平定に向かい、
我らは一命を捧げる覚悟で総大将に付き従い、
前に進むのみであります」

 最後、勝丸は威勢よく返事をした。

 信忠の花押(かおう)は、
太平の世にのみ現れるという心優しき伝説の生き物、
麒麟を象った信長のものに比べれば、
あっさりしたもので、
信忠の「忠」、
つまり忠誠、忠義の「忠」を意匠にしていた。

 信忠は小姓二人のやりとりを聞きながら、
心して綴り、
心中、岩村城攻略に思いを馳せた。

 戦績らしい戦績もない自分が、
高位の位階を受けている。
 一方、
志多羅の戦いまでは武田の版図を最大にした功労者である
勝頼が官位を許されなかった。

 生まれ落ちたその場所で、
さだめを受け容れ、生きる……

 勝頼も自分も同じなのだと、
信忠は黙って筆を運びつつ、
今一度、覚悟を噛み締めた。


 
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