第189話 妙顕寺(4)西王母

文字数 668文字

 演し物は、
唐土(もろこし)の宮廷に出現した仙女が
名君を称える筋立ての『西王母』へと移っていた。
 西王母は三千年に一度だけ()る奇跡の桃の実はじめ、
様々な捧げ物を皇帝に献じると、
桃花の盃を勧めて治世を祝福する。
 西王母は舞い戯れて、
たなびく雲に乗り移り、天へ昇っていった。

 「何と目出度(めでた)く晴れやかな。
上様も、さぞ楽しまれたことであろう。
まこと、佳き日じゃ。
これは是非にも記さねばならん」

 筆を忙しく動かし始めた信定に仙千代も笑みを返した。
 しかし心中で、

 きっと上様は、
欠伸(あくび)を嚙み殺しておいでであろう、
美しいもの、佳きものを解さぬ上様ではないが、
為すべきことの余りに多い御方ゆえ、
御性分のせっかちも加わって、
頭の中は政務や戦況を思い、
恐らくそちらが御多忙じゃ……

 と思い、桟敷の信長の背に、
辛抱我慢があるような気がした仙千代は、
実は内心信定も
同じように信長を見ているだろうと推した。

 終演後、果たして信長は、
感涙の跡の仙千代に、

 「仙。眼が赤いぞ。如何した」

 と言った。

 「はっ!至芸を拝見させていただき、
不調法者ながら、
つい涙してございます」

 「何だ、泣いたと申すか。
待ちくたびれて眠気かと思うたわ」

 「睡魔に襲われる閑なく感銘致しておりました」

 「ふうむ。ま、程々にな。
悲恋の姉妹やら奇跡の桃やら、あれは作り事。
惑溺はならぬぞ」

 「ははっ」

 別段冗談でもなく真顔で訓戒を垂れた主と、
やはり神妙な面持ちで承った近侍のやり取りに
信定は筆を止めて顔を(うつむ)け、
何やら噛み殺していた。

 九日後、京で忙しく過ごした信長は、
帰国の為、十五日に旅立った。
 

 

 
 
 
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