第322話 残香(1)不寝番

文字数 1,162文字

 やがて、夜の帳は下り、
小姓に訊けば信長は湯浴みを済ませ、
夕餉は湯漬けをさっと流しただけで、
早々に床へ就いたということだった。

 信長は岐阜での暮らしでは、
何方(どなた)か側室と天守の寝所で休むことが殆どであったから、
この夜は例の外だと言えた。

 側近勤めに加え、信忠帰還の支度が多忙を極め、
日の出から日没まで休む間もなく、
心身は困憊していたが、
仙千代は信長が就寝した公居館に近藤源吾重勝を伴って行き、
不寝番の小姓達に、

 「今宵は我らが務める。
下がって良い」

 と命じた。

 信長は眠っていて、
誰が侍っていようが厠へでも行かぬ限り、
知ることはない。
 ただ、それはどうでも良いことで、
仙千代の思いとして、信長の大恩に報い、
このような日こそ陰徳を積まねばならぬという一心だった。

 「付き合わせ、すまぬ」

 今一度、重勝に詫びた。
 公居館は幾重にも警備が巡らされていて、
信長に危険が及ぶ心配はなく、
寝所前の小姓の警護自体は形式的なものであり、
用を言い付けられれば応じたり、
火急の報せがあれば取り次ぐというのが役割だった。

 「何を。
殿が夜通し起きておられると思えば、
むしろ寝てなどおられませぬ」

 「うむ。眠くなれば申せ。
市江兄弟と代われば良い」

 「彦七郎、彦八郎共に今宵、
嫁御と暖をとっておりましょう」

 「そうであったな」

 「この源吾、無粋な真似は致しませぬ」

 日ごろ寡黙な重勝の珍しく艶っぽい言い様に、

 源吾こそ、未だ独り身じゃった……
市江兄弟は既に嫁を娶り、
源吾と同齢の堀様もまた然り……
源吾に(つま)を見付けてやらねば……
 それも主たる我が務め……

 と養子先の万見家、実家の神子田(みこだ)家、
重勝の近藤家、彦七郎らの市江家、
織田家中の親しい家来衆を思い浮かべた。

 「時に、嫁御とするに、
どのような女子(おなご)が好みじゃ」

 「美しく賢く、
病知らずで気立てが良ければ、
まあ、及第でございましょう」

 「図々しいぞ」

 仙千代が睨むと重勝は、

 「こればかりは譲れませぬ」

 と涼しい顔を通して見せた。

 そこへ人影が落ちた。
 秀政だった。

 「堀様!」

 「先を越されたか。
憎らしいにも程がある」

 「(きゅう)様も不寝番に?」

 「何やら寝付けず、な……」

 秀政は重勝に、

 「ここは我らに任せ、休むが良い。
三国一の嫁御の夢でも見るか」

 戯言(ざれごと)を聴かれた重勝は赤らみつつも、
秀政の気遣いを有り難く受け取って、
礼を述べ、場を離れた。

 秀政と何を話すでもなく、
並んで不寝番をして、
どちらかが睡魔に襲われ、首を下げると、
折をみては互いが起こし、夜明けを迎えた。

 鳥の鳴き声が賑やかになる頃、
二人同時に上下の瞼が合わさって、

 ああ、朝だ、
いかん、儂は寝たのか!
 朝当番の小姓が来る頃じゃ!……

 と視界を開いた瞬間、
がらりと戸が開き、信長が現れた。

 秀政も仙千代と同時に起きていた。


 

 

 

 

 


 

 

 

 





 



 


 


 

 
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