第380話 炭火(2)譫言

文字数 1,348文字

 万見家の娘の一人が嫁している近隣の医家から、
程無くして煎じ薬が届けられ、
煮出した生薬を小弁は朦朧とする中、
正体のない身体ながら頭や背を支えられ、
匙で少しづつ無理矢理にでも飲まされた。
 主に女中の亀が付き添って、
入れ代わり立ち代わり皆が手伝いに入り、
誰もが小弁の生還を願った。
 それは小弁が領国の主、信忠が贔屓の役者であって、
何よりも、
仙千代が連れ帰った子であるからだった。

 陽の高いうち、万見家で臥した小弁は、
日没を過ぎても生気を失ったまま、ただ息をしていた。
 時に(うな)され、その時だけ乱れる呼吸の中で、
役の台詞を口走ったり、
何を詫びるのか謝罪の声をあげたり、
合間には、

 「お母(おっかあ)……」

 「お母……お母……」

 と言った。

 足軽の夫を戦傷で喪い、幼い娘を女手で育てる亀は、

 「うちの()には父が居らん、
不憫じゃと思うておりましたがあの子には私が居る。
 万見の皆様が良うして下さる。
 天涯孤独とは小弁のような者のこと。
この世に居らぬ母を呼び、お母、お母と。
 こんな淋しい思いのまま、死なせるわけには。
そんなことは……」

 と小弁の口から母という言葉が出るたび涙ぐみ、
小弁を(さす)ったり、唇を白湯で湿らせたりした。

 夜明け前、亀が手洗いか、
襖で仕切られた隣室を出て行く気配に、
目覚めた仙千代は小弁を覗いた。
 部屋は十分暖かく、炭火が燃えていた。

 心なしか小弁の息が
しっかりしてきているように思われた。

 「小弁」

 呼び掛けて手を握った。

 「小弁……」

 小弁が現れてからの日々、
仙千代の意識からこの童がずっと離れず、
理由はといえば信忠が節度を伴いながらも、
明らかな寵愛を示したからだった。

 小弁の年頃の儂はといえば、
生まれて初めて心動かされ、
お慕いしたあの方に蔑まれ、嫌われた……
 悪いことなんかしていないのに、
そのはずなのに、濡れ衣は解けず、
誇り高いあの方の御心を汚し、疎まれた……
 盗人は嫌いじゃ、そのように仰って……

 小弁の乱れた髪を直してやりつつ、
ひとすじの涙が流れた。
 信忠への思いは失せなかった。
 手に届かぬ気高い星はいっそう輝いて、
美しかった。
 憧憬は滅せず、存在は煌めいている。
 触れもできぬと思えば光輝は増した。

 信忠の不興を買えば出世はそこで途切れる。
 仙千代が眼を瞠る躍進を遂げたのは
ひとえに信長の力によるものであり、
その力は仙千代の支えであり、
生きてゆく柱そのものだった。

 一瞬、いつしか抱いた疑念が湧いた。

 もしや殿は儂が未練を残さぬよう、
足蹴にしてまで嫌う真似をされたのか……
 一度と見舞えぬ松姫をあれまで純に思慕されていた殿、
その殿なれば容易く儂を見捨てなど……
 いや、殿が下さった約束の数々も、
あれは若気の至りであって、
やはり儂は殿の心底で昔の傷跡なのか……

 胸は早鐘が鳴り、喉は乾き、
耳鳴りまでも覚えた。

 そこに微かな声がした。
 小弁が何か訴えていた。

 「お母……」

 亡き母を求めていた。
 酒の為、ただ一人の子を金に換えた母だった。

 亀が居るなら手を握らせて、

 「お母はここじゃ、
早う治れ、元気になれ、
飯を食い、走れるようになれ」

 とでも言わせたいところだが生憎(あいにく)だった。
 仙千代は両の手で痩せて乾いた頬を包んだ。
 ゆっくりと小弁の手が動き、
仙千代の手に重なった。

 

 

 
 

 
 
 

 


 

 
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