第268話 柴田(4)狂歌②

文字数 975文字

 「朝夕になれしなしみの姥口(うばぐち)
人に(すわ)せんことおしぞ思ふ」

 朗らかに信長は呟いて、
秀政がさらさらと(したた)めた。

 姥口とは茶釜の形状を指しており、
祖母口とも書いた。
 釜の口の周りが高く盛り上がった姿が
歯の無い老婆の口元に似ていることから、
この名が付いていた。
 信長には東国 佐野庄 天命(てんみょう)で作られた、
愛用の姥口釜があって、
佇まいの大らかさを信長は好み、
見どころである縮緬(ちりめん)肌の表面は、
ゴツゴツとした荒地が多い天命釜には珍しい造作で、
湯釜に興趣を与えていた。

 信長は家臣や諸将の勲功、忠節に応じ、
茶道具、刀剣、武具、反物、装束を下賜し、
過去に茶釜を授けた際、
一度二度この狂歌を添えたことがあり、
機嫌の良い時に出る歌だった。

 「権六は縮緬姥口を珍しがって、
さも欲しそうな顔をしておることがあったで、
まあ、姥口は権六に嫁がせようと思ってな」

 すると仙千代が、

 「此度、姥口釜は携えておりませず、
岐阜の御城でございます」

 と話を進めた。

 「うむ。ということは、だ」

 と言う信長に今度は秀政が、

 「柴田殿におかれましては姥口釜御拝領の為、
岐阜へ登城せよと、
左様な御指図でございましょうか」

 「いかにも。
あの釜、この茶碗と並び、権六にやろう。
歌は証文につき、渡しておく」

 狂歌は、
すっかり自分に馴染んだ姥の口を
人に吸わせるのは嫌だなという意で、
手放す器への愛着を表していた。

 今の今、
市の嫁す日は決められなかった。
 義弟の裏切りに信長は怒鬼と化し、
二年前、
妹の夫、舅姑、後継男子を(むご)く討って見せしめとし、
渦巻く怨念を浄化せんと古代唐土(もころし)の風習を倣い、
箔濃(はくだみ)にさえしてみせたが、
無論、市や遺児達に恨みがあろうはずはなく、
長政の前室の子で二男においては寺へ入れ、
命を奪うことをしなかった。
 源頼朝を生かしたことが平氏滅亡に繋がったとして、
浅井家男子は絶やすべしの声がある中、
信長は天下を治めるに温情はあって然るべきであり、
わけても妹の悲痛に鈍くはいられなかった。

 市の気鬱が薄まって、やがて消え失せ、
姫三人が健やかに育ったならば折を見て、
四人を越前へやり、
新たな一歩を歩み出すことは、
市の勝家に対するかつての慕情、
勝家の熱望を思えば、
けして悪い策ではなく、
むしろ収まるべくして収まる道だと思われた。

 勝家主従は、
信長、秀政、仙千代のやりとりを、
頭上に聴いて、伏していた。


 




 
 

 
 

 
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