第434話 第三部 了に寄せて(8)

文字数 1,150文字

 ……山口小弁⑤


 1)明智軍が攻め込む中、
信忠の馬廻り、佐々清蔵が、
鎧も着けぬ身では亡骸を見られた時に恥ずかしかろうと言い、
敵中に討って入って相手から甲冑を奪い、
小弁に着けさせたというもの。

 2)二条新御所を落とした明智軍が入った際、
頬を血に染めたたいそう美しい少年の死体があり、
兵達が哀れんだ。
 信忠の小姓で京都伏見の役者の出という山口小弁だった。
 享年16。
 小唄が上手かったという。

 3)奇襲の明智軍は信忠を軍勢、装備で圧倒した。
 佐々清蔵と山口小弁は、
信忠を総大将とする甲州征伐での武功により、
信長から感状と褒美の刀を賜っていた。
 二人はこの最後の日にも敵に討ち入り、
鎧甲冑、武器を奪い、勇敢に戦った。

 以上、共通するのは、
小弁が佐々清蔵とコンビのように語られていることです。
 武田家を滅亡させた信忠の甲州征伐で、
清蔵と小弁は信長から称賛を受けていて、
それがこうした逸話に繋がって、
今に伝えられているのだと想像します。

 前にも書きましたが小弁と同名の家来が、
信忠の弟、信雄(のぶかつ)の分限帳に、
信忠の死後、載っています。
 果たして同一人物なのか。
 いや、違うのか。
 小弁の出自も相まって様々な想いが膨らみます。

 小弁の生死の謎を紡ぐような物語、
いつか書けたらと夢想もしてしまいます。

 そして明確な史実も一つ。

 佐々清蔵は信長の馬廻り(親衛隊)を率いた佐々成政の甥で、
妻の輝子は従兄妹(いとこ)でした。
 輝子は成政を父に、
京都所司代にして信忠の庶兄の養父である村井貞勝
(信忠と共に二条新御所にて討死)の娘を母にという出自。
 清蔵、輝子、共に信長と深く結び付く家柄で、
未来は希望に満ちていたことでしょう。
 
 しかし清蔵は戦死。
 夫を喪った輝子は五摂家の名家にして、
関白の家柄である公卿の鷹司信房の後妻として、
再嫁しました。
 長男の信尚は関白・左大臣となり、
長女は徳川家光の正室として輿入れ、
病がちであった為、
家光の子を産むことはありませんでしたが、
家光からも家光の子である家綱からも生活を厚く保証され、
また輝子の二女は浄土真宗本願寺の座主へ嫁ぎ、
輝子は関白夫人として一生を送りました。
 きっとあの世から清蔵も見守り、
現世に残した妻の幸福を喜んでいたことでしょう。

 尚、昭和時代、
論客として名を馳せた故・佐々淳行(あつゆき)
(東大法学部を経て初代内閣安全保障室長、
第15代防衛施設庁長官)は、
水戸黄門の助さんのモデルとなった佐々介三郎の
兄の子の子孫だそうで、
このように成政、清蔵の熱い血が現代にも継がれていると思うと、
深い感慨を覚えます。
 秀吉により、さぞ悔しかろう死を迎えた成政。
 秀吉の子孫は秀頼で絶えています。
 しかし成政の血は、
娘の輝子によって今上天皇の直系祖先となって、
今の御世に受け継がれています。
 

 
 
 
 




 
 
 


 
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