第321話 菊の香り

文字数 1,374文字

 湯浴みして身を浄めた仙千代、秀政は、
土田御前の侍女、於葉を訪ね、
於艶の方の死を報せた。

 聞けば、小さな子の居る側室方は、
土田御前の勧めにより下がられたものの、
鷺山殿は御前と共に居られるという。

 「於艶様の最期、
御二人からお伝えください。
 幾人もの口を経るのでは、
真実(まこと)から遠ざかることも有りますでしょう」

 織田家の女人として最高の地位にある土田御前、
鷺山殿の許に、よもや日没後の今、
男である仙千代、秀政が入室することは憚られ、
於葉の取次により、
縁から秀政は一部始終を端的に語り、
仙千代は最初の挨拶以外、黙して持した。

 やがて衣擦れの音がして、
戸が開けられた。
 鷺山殿が、

 「どうぞ、お入り。
この日の内に来てくれたとは御苦労でしたね。
 大方殿様(おおかたどのさま)の仰せじゃ。
どうぞ、お入り」

 と誘った。

 それでも二人は恐縮し、
御気持ちのみ有り難く頂戴しますと礼をして、
そのまま縁に留まった。

 灯りが揺らめく向こうに、
土田御前の影があった。
 鷺山殿は御前と二人の間に座した。

 清らかな菊の香りが奥から流れた。

 「この秀政が、
息の根を止めたのです、岩村殿の……」

 苦渋に満ちて、
押し出すように告げた秀政に土田御前が、

 「次第を聴いて、
不謹慎なれど思ったものじゃ。
吉法師殿と於艶殿の今生(こんじょう)最後の喧嘩であったと。
 あの二人は似ていて、しょっちゅう口争いしておった。
それが仲が悪いかといえば違う。
誰もが手を焼く吉法師に敵うのは艶様だけだと、
吉法師が派手な悪戯をする度、
他の子らは皆、於艶殿を呼びにいったものだった。
 私には親子程も(よわい)の違う小姑殿であったが、
気丈にして美しい、自慢の義妹(いもうと)であった」

 鷺山殿はじめ、秀政、仙千代、於葉は、
傾聴した。

 「あの世には義父上(ちちうえ)や先代大殿はじめ、
数多の織田家の皆々が御座(おわ)す。
 ようやった、良く生きた……
誰もが左様に迎えるであろう。
 菊千代、仙千代。
二人も何ら、悔やむことはない。
 上様は御役目を果たされた。
苦しみは上様が負う。
上様はそのおつもりじゃ」

 生後間もなく傳役(もり)や乳母を付けられ、
次期当主として育てられた信長に対し、
二男の信勝は土田御前が手元に置いて養育し、
亡くなるその日まで、
同じ末森城に居住していた。
 織田弾正忠(だんじょうのじょう)家の生き残りをかけ、
尾張統一を目指す信長に庶兄の信広、
実弟 信勝が周囲に囃し立てられて、
それぞれ二度の謀反を企て、
信広は血筋が劣ることが幸いし、
赦免された上、今は信長の臣下となって、
主に外交に携わっている。
 信勝は一度は赦されたものの、
同腹の弟ゆえに次は無かった。

 自ら育てた信勝を喪い、
悲嘆の余り、土田御前が信長を遠ざけた日々が、
確かにあった。
 が、御前は信長を憎悪したのではなく、
ただ、悲しみの源から離れていたに過ぎず、
何処の誰が我が子を憎むことがあろうかと、
古くからの家来衆は仙千代に語って聞かせた。

 挨拶の上、退がろうという二人を、
畏れ多くも鷺山殿が縁に出て、

 「大方殿様が御休みになるまで残ります。
上様のことは御二人が()う御存知じゃ。
 数日内に若殿もお戻りになられる由。
御苦労ではあるが、菊殿、仙殿、
上様、若殿をくれぐれも頼みます」

 と、言葉を掛けられた。

 「滅相も無いことでございます」

 「身に過ぎたる……
恐縮の極みでございます」

 勿体なくも鷺山殿の見送りを受け、
二人は御前の御座所を後にした。

 




 


 


 

 
 

 



 


 
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