第345話 尾関邸(2)三郎の深慮①

文字数 896文字

 「ああした者?」

 仙千代は訊き返し、三郎を促した。

 「人は人品骨柄で見なければならず、
本性にこそ価値がある。
 異論はない。
 が、現実この世には身分というものがあり、
これを外して生きることは誰にも出来ぬ。
 儂や仙とて侍に生まれなければ田を耕し、
木を切り、魚を捕って暮らしておったであろう。
 侍に生まれたことが良いか否かも、
儂には分からぬ。
 言えるのはたった一つの命を輝かせるのは、
精一杯生き抜くことだ。
 誰も生まれ落ちたその場所で」

 尾関家は今でこそ織田家の臣下として安泰を得ているが、
過去には信長に打ち負かされて滅亡の危機にさえあった。
 三郎は明るい人柄ながら、
仙千代がとうてい及ばぬ苦労を経験していた。

 「なれど羽柴藤吉郎殿のような御方も居られる」

 仙千代は反論を試みた。
 三郎は淡々と、

 「好き合って結ばれた御相手、
於寧(おね)殿は武家のお育ち。
読み書き、作法を羽柴殿に教授されたという。
 羽柴殿は(かばね)無き身から
婚姻により名を得、一族に列された。
 さればもう侍だ」

 「して、小弁がどう繋がる」

 「小弁は卑賎の生まれ。
酒の毒に堕ちた女が産んだ名も知れぬ者。
 役者は河原乞食と言うが、
芝居が終われば体を売って銭とするのも日常茶飯。
 今の小弁は禿童(かむろ)だが、
他の若衆同様いずれ春を(ひさ)いで暮らすのだ。
 左様な境遇に生まれ落ちたのが哀れ、小弁。
 美しく、歌舞の才があろうとも、
殿に近付けてはならぬ。
 殿の御心情に立ち入るは僭越にして心苦しくあるが、
殿は小弁の芸、
分けても(うた)いの技に心奪われておられたように儂には映り、
何やら胸が騒ぐのだ」

 鏡池のようだと三郎が言った大和の澄んだ名酒に、
ふと有り得るはずのない細波(さざなみ)が立ったように見えて、
実はその細波は仙千代が小弁を見たその時に、
既に心にあったものだと認識をした。
 猿楽の至芸を知る信忠が、
流れ者の少年役者に深く聴き入り、
時に笑い声をあげ、感嘆し、
過分な褒美を一座に与えた。

 殿は小弁をたいそう気に入られたのだ、
そんなことはとっくに気付いていた、
気付いていながら気付かぬようにしていただけだ!……

 仙千代は盃を干した。
 美酒であるはずなのに味が分からなかった。
 

 
 
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