第276話 祝賀の日々(6)郷愁③

文字数 1,040文字

 
 「本願寺の連中も食うておるかの。
あれらも肉を食らえば、妻も子もおる。
 今頃、舌鼓を打っておろう」

 信長の機嫌の良さは相当だった。
 本願寺座主 顕如及び三好康長が献上の品々は、
それ程の名品だということだった。
 世に名だたる名器の数々を
富と力の象徴として信長が独占した上、
茶の湯を家臣の統制、掌握に用いて政道に生かし、
有限である領土の代わりに勲功の褒賞として与える。
 それには信長の手を経ておくことが重要だった。
 「信長所有」という事跡によって、
宝は何倍にも輝きを増した。

 「儂が十代半ば、
那古野城に住まっておった頃、
本願寺といえば思い出すことがある。
 宗派の寺が尾張にも多くある故、
何かと交渉事があり、
外交の腕を見込まれ、
平手の(じい)が摂津の本山に出向いた際、
三日の予定が帰ってこぬのだ。
 我が父が本願寺と兵刃を交わすことはなかったが、
領内では今と同じく、
税を納めよ、
いや納めぬでしょっちゅう揉めておった故、
もしや平手は謀殺でもされたかと誰もが危ぶんでな」

 傳役(もり) 平手政秀の死因は、
若き信長の行状を諫めんとする為の自害であったから、
本願寺からは当然、生還している。

 「七日か八日か、いや十日もした頃か、
如何にもばつが悪そうに帰りよっての。
 儂には城に何日も帰らず何処に居ただの、
湊の店で瓜を立ち食いしておったのを誰ぞが見掛けただの、
その風体の奇妙さは武士にあるまじきだの、
まあ、口やかましかった。
 若殿、お座りなされ、
申し上げたき儀がございます、
お座りなされと言っては長々細々厳しく説教するくせ、
何と本人は本願寺の坊主共に気に入られ、
日中は連歌に茶の湯、
夜は酒の池に溺れ、帰るに帰れず、
一日延ばしが十日にもなり」

 奇行おさまらぬ信長を案じ、
織田家の行く末を危ぶんで一命を差し出した謹厳烈士というのが
仙千代の抱く政秀像だった。
 
 仙千代は噴き出した。
 信長もかっかと笑った。

 「歌、蹴鞠、茶の道と、
風雅に長けた御人だと聞いてはおりました。
なれど、引き止められて十日とは」

 「家中、どれほど気をもみ、心配したか。
遅れるなら遅れるで早馬さえ寄越しもせず。
 使者を手にかけるとは許されまじと、
父上など、平手に万一あれば、
本願寺の寺という寺、
焼いてくれると息巻いて怒り心頭であった。
 それが情けない顔で平手は戻り、
詫びること、詫びること。
 あの時の平手の顔は忘れられん。
今になっても笑いがこみあげる」

 信長は調子よく鹿肉を二切、三切、口へ運び、
青かった日々と、
そこに居た政秀を懐かしんだ。

 

 
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