第325話 信忠凱旋

文字数 1,897文字

 霜月を残すところ三日という午後、
信忠は帰還した。

 美濃の各地の村々は僻地は僻地なりに、
例えば精一杯、道を掃き清め、
悪路は平らかにし、樹木や垣根を剪定し、
初陣にして半年もの包囲戦に耐え、
勝利をおさめた総大将を寿いだ。
 
 織田軍には村の男達が志願して入隊しており、
生き永らえて帰った者には報奨金が与えられ、
死した者の遺族には弔慰金が払われる。
 信長は尾張統一時代から、
兵による合戦時の略奪を戒め、許さぬ代わり、
戦中は兵糧を手厚く潤沢にして、
戦後は労賃を支払った。
 これにより織田軍には(こぞ)って兵が集まり、
自然、戦の展開は容易となり、
人材の発掘に寄与するところとなる。
 信長は圧倒的な財力を背景に莫大な戦費を注ぎ込み、
巨軍をもって戦を制し、
広げた版図で経済を重んじ、
新たな資金を獲得すると次の合戦を優位に進めた。
 それもこれも本領が、
肥沃にして広大な平野であった僥倖を生かしたもので、
織田家先々代、先代、
そして信長に至るまで三代にわたり経済に重きを置いて、
徹底した重商政策を採り、
尾張兵が白兵戦を不得手とするなら最新の武器を用い、
装備を厚くすれば良いという逆転の発想に逡巡を一切見せず、
突き進んだ結果による果実なのだった。

 信忠軍が城下へ入ると歓迎はいっそう(あらわ)れ、
辻々は華やかな造花で飾られ、
隊列を迎える角々は老若男女で溢れ、
老いも若きも喜色に満ちて若き将軍を歓呼し、迎えた。

 山深い東濃岩村と比べ、岐阜は暖かだった。
時に伊吹おろしはごうっと音を立て、
枝葉を揺らして砂塵を巻き起こす。
 それでも岐阜は暖かだった。

 帰った、ようよう帰った!
あれに見えるが岐阜の城……
 我が居城、岐阜の城!……

 物心ついて間もなく母を喪い、
信雄(のぶかつ)、御徳と三人、鷺山殿を養母とし、
城に入った日の記憶が信忠にはあった。

 尾張から初めて出る旅で、
木曽、揖斐、長良と並走の大河を三つ渡り、
美濃へ入ると暫くしてから
大地にすっくと立する山の頂上に城の甍が輝いていた。

 「養母上、あれに御城が。
あの御城に父上が居られるのですか」

 「そうですよ、
若や姫をお待ちでいらっしゃいます。
 今か今かとお待ちでいらっしゃいますよ」

 思春期前の信忠にとり、
信長は戦に政務に忙しい、遠い人であり、
名将、猛将さえもがひれ伏す様を見れば、
信忠にも畏怖の対象でしかなく、
ある意味、人を(かたど)った軍神のようなものだった。

 「我らを待って?父上が?」

 「南蛮の菓子を用意しておられる由、
楽しみになさいませ」

 信雄が、

 「嬉しゅうございます!」

 と信忠より先に答えた。

 信忠は話題を戻した。
 
 「あのような高所の御城……
小牧の御城よりずっと高くに見えまする」

 「西も東も遮るものはありませぬ。
北も南も。
 この世の王になったかのような眺めなのです」

 「養母上は景色を御覧になったのですか」

 十歳だった信忠は養母が稲葉山城、
つまり信長により名を変えた
岐阜城に育った姫であると思いが至らず、
問いを重ねた。

 「陽も月も手に届くような御城。
雲は下に見えますか」

 「そのような時もありますよ。
季節によっては何度も何度も」

 「何と面白い。
雲を掴んでみたい。
雲の中を走ってみたい」

 まさに雲を掴むような夢を膨らませた奇妙丸だった。
 隣に居た信雄、当時の茶筅丸(ちゃせんまる)が、

 「兄上、私も掴みます、走ります!
是非、御一緒させてくださいませ!」

 と言ったその真顔も脳裏に鮮やかだった。

 「若殿なら雲をも掴まれるでしょう、必ずや。
雲を掴んだら母にも見せてくださいね。
御茶筅殿も、きっとですよ」

 鷺山殿の朗らかな笑い声が今も耳に残っている。

 養母上(ははうえ)、この半年の日々、
如何お過ごしであられたか……

 小さな異母弟妹(いぼきょうだい)達も健やかに育ち、
夏から冬と季節が二つも過ぎては、
もはや長兄の顏も忘れた子らが中には居るに違いなかった。

 それもまた良しだ、
儂も全員を覚えてはおらぬが実情……

 信長は子福者で毎年のように子を授かって、
信忠は未だ見ぬ新たな弟、妹を期待した。

 御坊よ、兄は岩村を陥落させた……
来たる新年も武田の館で人質の身、
辛いだろうが上様が必ずや取り返してくださるはず、
耐え忍ぶのだ、その日まで……

 秋山六大夫の行方は依然、杳として知れなかった。
信忠は探索を打ち切って、
似た子も似ぬ子も幼児を一切捕えなかった。

 五男の御坊、続いて生まれた男児が六大夫……
岩村殿の願いがこめられた名……
 六大夫、
生きていたならいつか刃を交えるであろう、
この儂と……
 その日を楽しみとするも(もののふ)の本懐……

 茫洋たる濃尾の野に屹立した稲葉山。
 一行は城に着き、帰陣式を済ませると、
信忠は今一度、身を整え直し、信長を礼訪した。

 


 

 




 

 



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み