第95話 多聞山城(5)花の影①

文字数 793文字

 何処までも平らかな地が広がり、
幾筋も大河が流れ、
確かに水難の地ではあるが、
一方で川の氾濫は土地を肥やし、
経済回復も早い尾張に生まれ育った信長や、
家臣衆にとって大和はまったく新たな土地柄で、
多聞山から眺める小さな盆地は災害が少ないながら、
それ故、歴史も人心も入れ替わりがなく不変であって、
奈良京(ならのみやこ)は、
焼き締められた堅固な鉢のようなものだと仙千代は思った。
 厳かにして端麗な鉢には、
か弱く見えて実は老獪な魚が棲んでいて、
それは鯉でも(なまず)でもないが、
蛮力を備えているはずの力魚をチクリと刺し、
時に牙を剥く油断ならない存在なのだとも、
脳裏に(よぎ)る。

 「上様と九条卿の因縁を、
仙千代も知っておるのだな」

 「何方(どなた)からであったか、
以前、耳にしたことがあって、
印象深く覚えておる」

 今より遡ること七年前、
どの大名からも支援を受けられず、
孤立していた足利義昭を奉じて信長が上洛した際、
内大臣として信長に会った九条禅閣は、
戦乱の世の貴族の典型で、
とりわけ若い頃には困窮し、
各地を彷徨(さまよ)い、居を変えた苦労人だった。
 信長がいかに実力者であろうとも、
当時は低位であって、
名目上、田舎の一大名に過ぎず、
信長にとって父世代の禅閣は気骨を示し、
あくまで謁見の体裁を保って、
立ったまま、

 「御入洛大儀」

 とだけ伝え、背を向けて去り、
信長をひどく立腹させた。

 禅閣は最高の教養人でありながら、
娘婿である名門武家 十河氏を助けて
自らも出陣経験があり、
硬軟自在の個性を持った人物だった。

 実は後ほど側近に、

 「もしや、尾張のあの者の癇に障って、
この身は落ちぶれ、
死さえ無いではないやもしれぬが、
大臣たる者、御上(おかみ)の名を汚すまじ」

 と陰で語ったのだという。

 しかし仙千代にとっては、
相手が何処の大人物であろうとも、
主は信長であり、
尽くすべき忠節は織田家だけのものだった。

 上様の蘭奢待は九条卿に渡った……

 仙千代は苦虫を潰した。
 
 

 
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