第306話 再会(5)岩村殿③

文字数 1,418文字

 信忠は三郎、勝丸に茶の湯の支度をさせ、
於艶の方に自ら振舞った。

 茶碗を包むその指は爪の形が、
信長にも信忠にも似て、否が応でも血脈を偲ばせた。

 「美味しく頂戴致しました」

 於艶は涼やかに礼を結んだ。

 於艶の最初の夫、
日比野清実(きよざね)と共に斎藤家の宿老であった
日根野弘就(ひろなり)が浪々の果て、
織田家重臣、金森長近の与力となっているのを知る於艶は、
虎繫にもその道が残されているのではないか、
虎繁が信長の下で働く方策があって然るべきではないかと
訴えたのを信忠は耳にして、
その言からゆけば大叔母は、
信忠に直談判に出るのではないかと想像したが、
佇まいに物欲しげな様は微塵もなく、
凛としていた。

 ただ、今一度、

 「ほんに……美味しゅうございました」

 と言いこれが生涯最後の茶だと噛み締めていることが、
伝わった。

 信忠の視界は一気に曇り、
ぼたぼたと涙が落ちた。
 隠す間もなく涙は溢れ、止まらなかった。

 「何を泣かれる。
御立派な総大将ぶり、
織田家の末は明るいと、
嬉しく思う気持ちがこの艶にさえあるというに、
当の勘九郎様が御落涙とは如何なことでございましょう」

 信忠は嗚咽が止まらなかった。

 「不孝を……御赦し下さい」

 ついて出た言葉だった。
血で血を洗う過酷な宿命に於艶も己もあって、
我が身の勝利は、
かつて抱き、遊んでくれた大叔母の命を奪うことだった。

 「牝鶏(めんどり)歌えば家滅ぶと申すようで、
俗言は上手い言い方を致しますね」

 朗らかささえ装う清々しさに信忠は、
於艶が虎繫の助命を懇願したのは、
女城主としての於艶なりの矜持であって、
為すべきことは一切為した今、
不幸、不運は振り払い、
悔いのない生涯であったと大叔母自身が心を決め、
すべてに臨んでいるのだと知らされた。

 いつまでも泣いていては、
岩村殿に非礼であると気付いた信忠は、
居住まいを正し、視線を真っ直ぐにした。

 岩村殿は微笑んでいた。
 信忠は涙を堪えに堪えた。

 「さ、もういらっしゃいませ。
総大将は忙しくてあらせられる」

 「はい……」

 「点ててくださった茶の味わい深さ……
忘れるものではありませぬ。
良い思い出になりました」

 「はい……」

 顔を覆って信忠は泣いた。
 瞼を閉じた於艶の頬も濡れていた。

 自力では立つことも難儀な信忠を、
三郎と勝丸が抱き起し、
於艶の方に一礼し、後にした。

 岐阜へ移送される日まで、
虎繁と艶を同じ部屋に留め置くよう、
同日、信忠は指示をして、
また、一言も六大夫の名を出さずいた二人の誇り高さに、

 「六大夫とやら。
万一、似た子を見付けても、
単に似ているだけの童であるのは間違いない。
似た子を手討ちにしては親に恨まれ、
儂の名も汚される。
 本人であることが寸分の狂いもなく確かめられぬ限り、
如何なる幼童も誰一人殺めてはならぬ」

 と厳命し、
この命令は囚われの虎繁、艶の耳にも必ず届くと、
信忠は確信した。

 勝丸が信忠の下知を届けるべく退室した後、
三郎が問うた。

 「秋山の嫡子、
放ったままで宜しいのでしょうか」

 「探索しようと見付からず、生き延びたとして、
十年後か二十年後か、
我らが刃を向け合うか手を携えるのか、
誰にも分からぬ。
 何処の誰にも……」

 「上様がお怒りになられませぬか」

 「似た子を成敗しては織田家の恥だ。
確と本人ならば捕縛するまで。
 上様がお怒りになられる道理は何もない」

 「仰る通りでございます」

 三郎は得心し、
いかにも胸を撫で下ろしたような表情をして、
信忠を見上げた。

 

 

 
 


 

 






 
 

 
 



 
 

 
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