第75話 岩鏡の花(7)検使⑦

文字数 864文字

 信忠が気にしたのは無論、
織田家の領国だが、
岩村城下も頭にないではなかった。

 岩村の町はこじんまりした街並みながら、
食品、日用品を扱う店のみならず、
酢、味噌、酒の醸造所、
美粧品や反物を扱う御店(おたな)もあって、
落ち着いた佇まいが、
歴代城主の善政を偲ばせた。
 そこへ織田軍は侵攻し、
常套であれば、民衆を城へ追い込んで、
立て籠もる敵を、
いっそう困難に陥れる策が採られるところ、
信忠は、
収奪も城郭への民の押し込めもしなかった。
 この後、勝利を得たなら、
岩村城はおそらく河尻秀隆が主となり、
一帯を治めることになる。
 信忠は諸事を鑑み、
岩村城には硬軟併せた戦略でまずは始めた。

 「岩村の城民は見識を持ち、
郷土愛が深うございますな……」

 ごくごく内輪の顔触れの為か、
秀隆は正直なところを吐露してみせた。
 
 源頼朝の重臣であった加藤景廉の嫡男、
遠山景朝が築いた城下町、岩村は、
鎌倉以来の歴史を誇り、
遠山氏への帰属意識が根強い土地柄だった。
 艶姫の夫、遠山景任の死によって、
岩村遠山氏の血統は絶えたが、
だからこそ深い遺恨を残しては、
領土経営を困難にし、
ひいては大局に於いて不安定要素となる。
 武田家が未だ存在し、
面倒な一向一揆も各地に残存する情勢下、
総大将として信忠は、
三万の兵で攻め寄せたからには、
この東濃に火種の燻りを残すことは、
断じて避けなければならなかった。

 秀隆が難渋の色を崩さず、
重々しく放った。

 「虚心坦懐。
直截に語り合うのが最上なのですがな。
艶姫様は幼き日の奇妙様をお抱きになっておられる。
左様な仲で文字通り血で血を洗う所業など、
けして姫様の本懐ではないと、
与兵衛(よひょう)は考えるのでござる」

 織田家先代 信秀に十代半ばで仕えた秀隆こそ、
艶姫誕生の折から姫を見知っていたはずだった。
 
 秀隆の素の心情を表すこの言は、
続く言葉が厳しいものであることを、
予感させた。

 「さりながら……現に見るは、
あくまで城に立て籠もり、
四郎勝頼の援軍を待つ、この一本にて、
取り付く島もない有り様」

 信長が深い信を置く秀隆の次の一句を、
信忠は全身を耳にして、待った。


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