第343話 山口座(7)小弁②

文字数 1,074文字

 人の世の情の(もつ)れに関わることは性分として
避けるきらいがないではない竹丸が、

 「(くだん)の童は己の出生事情を知っておるのか」

 と入った。

 勝丸。

 「和尚が申すに、岐阜へ来た初年あたり、
まだ母なる女は生きておったようで、
和尚が小弁にこっそり水飴を与えてやった折、
ああ、甘い、おっ(かあ)にも食べさせてやりたい、
おっ母は酒を飲んでばかりでろくに飯も食わんが、
こんな飴なら舐めるかもしれん、
舐めさせてやりたいなあ、一口でもと言い、
勝丸は己が身が売られても尚、
母を案じ、恋しがっていたとのこと。
 いつか酒毒を治し、おっ母は儂を迎えに来る、
きっと、きっと、と……。
 翌年、顔を合わせた際、
母の安否を和尚は尋ね、
小弁は、知らん、おっ母なんぞ知らん、
そんな者は儂には居らんと言い、
それでも目に涙をいっぱい浮かべておったとか。
 酒に侵されて正気を失い、
たった一人の子さえ売った母なれど、
慕っておったのでしょう、
そんな母でも小弁には支えであって、
死を知って無理にでも思慕を消し去ったかと思うと、
あの切ない母子劇がいっそう胸に染みまする」

 「何と哀れな。何と健気な。
不憫でならん……」

 いつしか清蔵は啜り泣いていた。

 「和尚の思うところでは、
小弁が必死の芸を見せるのは、
一つには後で叱責を受け、殴られぬ為。
 あと一つは、演じている間だけは、
叱られもせず、打たれもせぬ。
 心から演戯を好いておるのかどうか、
分からぬというのが実際だろうと」

 「可哀想にのう……」

 清蔵は声をあげ泣いていた。
 仙千代、竹丸、三郎は勝丸に聴き入っている。

 「小弁が一座の者以外と口をきくことを、
梅之丞は嫌がるらしく、
和尚さえ、梅之丞に隠れ隠れ、
励まし、慰めておったとか。
 一座には梅之丞の娘、息子も居るが、
小弁より良いものを着て、
痩せた小弁とは違い、肉付きも良いと。
 小弁の境遇を推し量り、
他にも孤児は居る当寺ゆえ、
逃げたければ来れば良い、
仏様はいつでも待っておられると言うが精一杯。
 小弁にしてみればあんな梅之丞でも、
それしか知らぬとなれば
父親のようなものなのやもしれませぬ」

 清蔵は直情家だった。

 「何もしてやれぬのが歯痒いのう。
ほんに歯痒いのう」

 そこで話を打ち切ったのが三郎だった。

 「さても、陽が傾きかけております。
残りを仕上げてしまいましょう。
 天下の宝物なれば、
記録に間違いがあってはなりませぬ」

 涙をぐいと拭った清蔵は、

 「おお、そうじゃった。
上様の御出立に加え、
年末年始の各国からの訪問も夥しく、
多忙極まりない。
 そうじゃった、そうじゃった」

 と、休憩はここまでと立ち上がった。




 


 




 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み