第298話 女城主(5)六大夫④

文字数 709文字

 信長の記憶に祖父 信定はあった。
信定は伊勢湾海運の要衝、津島湊を抑えると、
尾張の一奉行家でありながら、
上位格の親類衆はおろか、
守護である斯波氏をも凌ぐ財力を得て、
莫大な富を背景に勢力増大を試みた。
 嫡子、信秀もまた、熱田に進出し、
富裕の湊を手に入れ、
更なる版図拡大を試み、達成している。
 信長が覚えているのは祖父の髭の感触で、
地図を広げ、指し示しては、

 「海は広い。
勝幡、いや、尾張なぞ大海の一滴じゃ。
吉法師、いつもこの図を頭に置いておくのじゃ。
果てない海を思えば戦ひとつ負けたとて、
青雲は尽きぬ。
 目先の一喜一憂に囚われるでないぞ」

 というようなことを、
幼く、字も読めぬ信長に言い、
膝に抱いた嫡孫に頬擦りをした。

 そこには幾人もの若や姫、つまり信定の子や孫が居て、
信定の末の娘、御艶の姿も確かにあった。
 
 年端もゆかぬ子のすることで、
叔母とはいえ似た齢の艶を童の信長が揶揄(からか)い、

 「叔母上」

 と呼ぶと艶は、

 「何であるか、甥御殿」

 と口を尖らせ、半ば冗談、半ば本気で気色ばみ、
図に乗った信長が囃し立てると、

 「これ、吉法師殿!小癪な」

 と怒る真似をして、

 「待たれよ、許しませぬぞ」

 などと二匹のイタチよろしく、
素早くクルクルと逃げては追い掛け、
最後、腹の底から笑い合ったものだった。

 信定、信秀を孫子(まごこ)が囲んだ懐かしい景色を、
信長は振り払った。
 祖父も父も未踏の頂きに立ち、
孤高の眺めを今の自分は見ようとしている。

 御艶は今や秋山の(つま)
武田の城の女主(おんなあるじ)……
 総領として為すべきことはただ一つ……
そして信忠に、その姿を見せねばならぬ……

 岩村征圧の喜悦に浸る間もなく、
信長の心身を重い(しがらみ)が強く締め上げ、離さなかった。



 


 
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