第372話 偽坊主

文字数 1,178文字

 「自重」の思いがあるからには信忠の性格からして小弁の芸、
いや、もしや当の小弁に惹かれたからと境遇を詮索し、
関心を隠しもしないということは考え辛く、
だとするなら自戒が先に立つ信忠は
小弁の過酷な生育を何も知らないはずだった。
 三郎、勝丸は信忠に余計な話は届けない。

 織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の勃興の途、成長を遂げた信忠は、
信長以上に殿様気質で基本、鷹揚そのもの、
そして一粒の米にすら困窮する下層の暮らしを最後の最後、
悪意無く、真には想像不能の青年だった。

 ただ、そのように真っ直ぐな信忠だからこそ
梅之丞の演し物が仏法に適い、
民の心を潤すものだとして
領国の通行許可や褒美を与えたのだから、
随一の華である小弁に万一あれば
一座を厚遇した信忠の意に反することとなり、
仙千代は小弁の不在に接すれば否応なし、
気を払うことになる。

 が、そんなことは表向きじゃ、
儂は別の動機で気になって、それで……

 彦七郎、彦八郎に小弁を探させ、
僧侶姿の梅之丞のもとへ仙千代は行き、
小弁の不在を問い詰めた。
 人気を一身に集める売れっ子、
しかも童であろうとも見境無く呵責を加える男であるから、
小弁の姿がないことに良い予感はあるはずもない。

 「後程それは。今は出番なもので」

 「小弁はどうした!」

 気色ばんだ仙千代にようやく梅之丞は小弁の「価値」に
気付いたようで激しい動揺を見せた。

 「どっ、どうしたと仰いましても」

 「何処に居る!」

 にじり寄った。
 
 「それは、でございますな、
そっ、それは」

 「申せ!早う!」

 演目は進み、場面が寺にと移ろうとしていた。

 「小弁がおらぬ!何故じゃ!」

 梅之丞は目を白黒させた後、
何かを探すかのように宙へ泳がせた。

 「出奔したんでごじゃいます!
そう、それでごじゃいます!」

 「出奔?」

 「逃げたんでごじゃいます。
あちこちで評判を博す内、
とんだ勘違いをしでかしやがり、
我は流れ一座に留まる器じゃねえ、
京の猿楽役者について当代一の花形になる、
こんなところに居れはせんと言い放ち、
留めるのもきかず後ろ足で砂をかけ、
逃げ出ていったんでごじゃいます!
 拾ってやった恩も忘れ、
座の皆を捨て、あの者は……」

 袈裟に身を包んだ梅之丞は悔し涙まで流そうとした。

 小弁が出奔……
 虐げられ、満腹も知らず、
(おび)える日々を送っていた小弁……
 決意をもって逃げたのか……

 そこへ聞き慣れぬ声がした。
 初めて聞く声だった。

 「違うぞ!逃げてなんかおらん!」

 「そいつ、嘘つきじゃ!
小弁とやら、逃げてなんかおりゃあせん!
 大噓つきじゃ!嘘つき坊主じゃ!」

 叫びには真実味があった。
 僧侶姿の梅之丞に仙千代は一発見舞った。
 地へ飛んだ梅之丞の顔を、

 「この偽坊主!」

 と吐き捨て、
仙千代は草鞋の足で踏み付けた。

 梅之丞を嘘つきだと放った二人は、
いつか遠目で幾度か見掛けた、
あのトラとフジという兄弟だった。

 
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