第425話 長良の堤(2)輝ける城

文字数 1,532文字

 仙千代は時に風に乗り、
名を呼ぶ声がするような気がしていた。

 三郎?勝丸?いや、兄の虎松と別れる藤丸か?
または空耳なのか……

 一行は長良の堤を西へ向かって隊を進めていた。
背は朝の陽が降り逆光で眩しかった。

 ある瞬間、初めて空耳でないと知れた。
 堤防下の小道は走る小弁だった。

 「仙様!仙様あ!」

 佐々清蔵が特別敏捷で視力()が良いと認めただけはあり、
駆ける小弁は小さな旋風(つむじ)のようだった。

 仙千代は小弁を連れてきた手前、
小者(こもの)勤めに支障がないよう着物をこさえてやったのに、
今も小弁は万見家で着せてもらった仙千代お下がりの小袖姿で、
それは養母(はは)が仙千代に浅黄色がよく似合うと言い、
好んで着せたものだった。

 馬を停め小弁を見るともう小弁は動かず、
離れた位置から膝を折り頭を垂れた。
 時代は激動しており例えば岐阜は信長の舅、斎藤道三が、
国を盗ったと言われるが道三はれっきとした武家の男であり、
貴人に目通りが敵わぬ草の民では決してなかった。
 先ほど出立の際、小弁は人波の陰に隠れていたか、
もしくは雑事で手が離せずに仙千代を見送ることが出来ず、
思い余ってこうして追ってきたのに違いなかった。

 信長の馬脚まで止めたことに気付いた仙千代が
一瞬迷いを見せると信長が、

 「あれは例の。
うむ、御狂いで諸国の言葉を訳しておったあの者、
歌舞音曲、笛にも長けた……確か小弁なる者」

 「左様でございます。
御馬の足をお停めし申し訳ございませぬ、
何分不調法者故いずれ(しか)と叱っておきまする」
 
 信長は笑った。

 「いずれとは何時(いつ)じゃ。
次に岐阜へ来るのは何時なのだ」

 信長の響きは温かだった。

 「叱らずとも良い。感心ではないか。
受けた恩を忘れず必死に駆けてきたあの姿。
実に清々とした(はやて)ぶり」

 ふと気付くと小弁の後ろに高橋藤丸が追い付いてきた。
こちらも頬を真っ赤にし、息せき切っている。

 「この者は用向きで御見送りが出来ず、
どうしても御背中だけでもと駆けてまいったのです」

 天下人の隊列を停め、
別れを惜しまんとした小弁を藤丸は庇った。

 気を利かせた長頼が小弁に放った。

 「面を上げよ!
今一度、心ゆくまで別れを惜しめ」

 恐る恐る徐々に顔を上げた小弁は、
信長、長頼の柔らかな表情に立ち上がると、
首に巻いていた手拭いを高々と掲げ、振った。
 その手拭いも万見の女達が持たせたもので、
小弁はたいそう大事にしていた。

 どちらが先に泣き始めたか、
いつしか小弁も藤丸も涙だらけになって、
おいおい声を上げていた。

 「暫しの別れだ。
また会う日が来る。
 さらば、藤丸!さらば、小弁!」

 と言の葉にあげた仙千代もいつしか頬が濡れていた。

 岐阜の殿を頼むぞ!最後まで!
必ずや殿を、最後まで!……

 涙で視界が曇る藤丸、小弁の向こうは
岐阜城が美濃の平野にすっくと立って、朝日に輝いていた。

 お別れでございます、殿!
 どうぞ御健勝で!
 武運長久、願っております!……

 信忠への思いが仙千代の身も心も熱くする。

 「五郎左(ごろうざ)が今か今かと待っておろう。
急ぐぞ!」

 信長の号令がかかった。
 五郎左こと丹羽長秀の城、佐和山に今日も立ち寄り、
休息後、安土へ一行は向かう。
 安土では織田家一番家老、佐久間信盛邸に逗留し、
築城の日々が始まる。
 普請総奉行、丹羽長秀。
 縄張り奉行、羽柴秀吉。
 他にも絢爛たる奉行衆、職人衆が新たな都で待っている。
 勝幡、那古野、清洲、小牧、岐阜と城を五度替えた信長が、
天下人としての威信を示す集大成の事業が安土城だった。

 藤丸、小弁の号泣は旅立ちの(はなむけ)だった。
 信忠への感謝、思慕は消えはせず、心の綱がぐっと握り締めている。
 仙千代はもう振り向かなかった。
 ただ信長の背を追い、駆けた。
 西へ。
 平安楽土へ。
 
 
 

 

 
 
 
 

 



 

 

 

 
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